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◎◎福沢諭吉的家庭論・2◎◎

1 :名無しさん@HOME:2007/07/23(月) 10:16:45 0
嫁の身を以て見れば舅姑は夫の父母にして自分の父母に非ざるが故に、
即ち其ありのまゝに任せ、之を家の長老尊属として丁寧に
事(つか)うるは固より当然なれども、実父母同様に親愛の情ある
可らざるは是亦当然のことゝして、初めより相互に余計の事を求めず、
自然の成行に従て円滑を謀(はか)るこそ一家の幸福なれ。

世間には男女結婚の後、両親に分れて別居する者あり。頗る人情に
通じたる処置と言う可し。其両親に遠ざかるは即ち之に離れざるの
法にして、我輩の飽くまでも賛成する所なれども、或は家の貧富
その他の事情に由て別居すること能わざる場合もある可きなれば、
仮令い同居しても老少両夫婦の間は相互に干渉することなく、
其自由に任せ其天然に従て、双方共に苦労を去ること人間居家の
極意なる可し。【女大学評論】


まとめ
ttp://www33.atwiki.jp/fyukiti-katei/pages/1.html

前スレ
◎◎福沢諭吉的家庭論◎◎
ttp://life8.2ch.net/test/read.cgi/live/1156515447/

35 :名無しさん@HOME:2007/08/30(木) 00:01:29 O
ほしゅ

36 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/08/31(金) 23:08:38 0
解語の花(人情の機微のわかる立派な人物)とは、男子が美婦人を
評したときの言葉であるが、婦人の目から男子を見れば、同様に
解語の花でなければ有情の松柏といえるだろう。ゆえに両性が
お互いに引き合ってよろこびあうという情は、天然の紅花緑葉を
観て喜ぶという情のさらに上を行くものであり、その軽重や厚薄
こそ違っていても、その趣は同じである。

37 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/08/31(金) 23:10:14 0
つまり、情交の妙なさまはここにある。情交が肉交に関係ないのは、
世の中の人が口に出しては言わないが少し考えれば明らかに気づく
ことであろう。

38 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/08/31(金) 23:14:10 0
男女の情交は肉交とは離れて独立すべきだということは前節に
記したとおりであり、道理のおいても事実においても争うことが
できないものだ。しかし、古人がひとたび貞節などという教えを
立ててからは、後世の学者がただその教えの文字にこだわり続け、
開け行く時代になっても変通の方法を知ることがなく、古い教えを
世の中の実情に適応させることを研究してこなかったのはよく
なかった。

39 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/08/31(金) 23:18:47 0
貞節と対照的なものとして淫乱の二文字をあて、貞でないものは
必ず淫である、淫を防ぐ方法はこれこれこうである、といって、
その間に少しの余裕も許さず、ますます両性の関係を窮屈にして、
双方にその区域を限り、男女は互いに近づくべからず、語るべからず、
触れるべからず、見るべからずと言ってきたのである。
人々の事情を考えることもなく、一切その主義で通して世の中を
組織させ、数千百年来既にその習慣が続いてきた。

40 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/08/31(金) 23:22:23 0
特に徳川の政治の太平にあった250余年のその間に、人々の心は
次第に萎縮して用心堅固を旨とするようになり、男女の交際に
ついても臆病になり、進んで危険をおかすよりもむしろ退いて
安全でいようという気風を醸してきた。婦人を人間交際の外に
排除し、あってないような存在の地位に陥らせたのは、わが国の
一大不幸というべきものだ。

41 :名無しさん@HOME:2007/09/01(土) 17:05:40 0
>>40
>婦人を人間交際の外に排除し、あってないような存在の地位に陥らせたのは、わが国の
一大不幸というべきものだ。

首がちぎれるほど頷いて同意

42 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/05(水) 22:53:24 0
習俗というものは、一度人の心に染み付いた以上は、天下をも支配し、
また天下を圧制して、いかなる有力者といえどもこれに抵抗する
ことはできなくなる。これを「社会の圧制(慣例の専制)」と呼ぶ。
政府の法律は厳格なものであるが、実際に接するのは非常に稀なため、
たとえ圧制であってもなお堪えることができるが、社会の圧制は
朝々暮々、人の心身の自由を犯して片時も止まることがない。
そればかりではなく、その勢力の増大もまた法律の比ではない。
男女近づくべからず、男子は外を務め婦人は内にあるべしとは、
古い教えの大きな主義、習俗によるものであり、社会の圧制は
厳にこの一主義を守って少しも容赦することがないのだ。

43 :名無しさん@HOME:2007/09/09(日) 20:21:56 0
保守

44 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/11(火) 00:12:53 0
これを実際に象徴しているものがある。それは、古来、日本国において
朋友と称した交際が行われているのは男子だけである。婦人に朋友の
ある者はいない。朋友がいないということは交際もない。
そのため、婦人が人に接する機会といえば親戚くらいのものであり、
その交際もまた、ただ親戚の間に音信があるだけである。
稀に、あるいは夫や父、兄に従って他人が集まる場所へ出席することが
あっても、ただ出るというだけで、談笑も飲食もせず、あたかも
座末に男子に加わって、他の者をただ見ているだけである。

45 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/11(火) 00:19:50 0
まさに、社会の圧制によって、もともと内にあるべき者が外へ
出たためである様子は怪しむに足らない。では家にいればどうかと
いうと、婦人に朋友がないなら、訪ね来る人もいないだろう。
夫や父、兄の朋友が訪ねてくることがあっても、もともとその
家の婦人、女子を知らないのだから、面会することもない。
たとえ知っていても、男子が留守のときには客に「面会は不都合だ」
といい、客もまた不都合だと思ってあえて面会を求めることは
しない。
このように、日本の婦人が内を治めるといっても、その内なる
ものは一家の内のそのまたその奥の内であり、表へは力を及ぼす
ことができない者のようである。

46 :名無しさん@HOME:2007/09/11(火) 14:57:11 0
>>44
平成の世の中でも、盆暮れになるとありがちな光景ですね・・・('A`)


47 :名無しさん@HOME:2007/09/16(日) 22:33:35 0
hosyu

48 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/18(火) 01:25:40 0
このような有様であるから、婦人が不愉快に思うのはもちろん言う
までもないことである。まるで肉体の生がありながら精神の生は
なく、幾千年もの間まったく奴隷の境界にいるのだ。一方の快楽を
失ったならば他の一方の快楽が増えたかといえば、そういうことは
決してない。
女性の不愉快は男性の愉快の助けにも足らない。そればかりか、
男子もまた共に快楽を得ることができないのは気の毒である。
前に述べたように、両性が互いに引き合って親しみ合うのは天賦の
ものであり、人生における最も重要な快楽はこの中に存在する
ことは言うまでもない事実である。社会の圧制は、この一番重要な
情の働きを自由にさせない。男女が会って親愛談笑するのが不自由
なのは、ただ女性の苦痛であるばかりではない。男性もまた共に
苦痛なのである。

49 :名無しさん@HOME:2007/09/18(火) 06:37:47 0
>まるで肉体の生がありながら精神の生は
>なく、幾千年もの間まったく奴隷の境界にいるのだ。

ズバッと、(この時代に)よく言った!

50 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/23(日) 23:59:41 0
もしこれを自由にしたならば、双方の心情は和み、桃李春風に
吹かれ、あらゆる生き物たちは花にさえずる極楽の世界と
なるにちがいない。しかし社会の圧制はまるで疾風妬雨のようで
この花を萎縮させ、さえずる生き物たちを驚かし、春の空の
温和なさまを簡単に真夏や厳冬の酷烈に変えてしまう。内にこもった
鬱々とした苦しみは蒸し器の中で蒸されるようなものだ。
外に発する不平は狂風が雪をまきあげるようなものだ。
つまり、社会の全面を無味無情の殺風景に変化させたのは、国の
不利不幸でなくて何であろうか。

51 :名無しさん@HOME:2007/09/24(月) 15:38:12 0
北風と太陽ですね・・・

52 :名無しさん@HOME:2007/09/25(火) 23:40:18 0
保守

53 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/27(木) 22:37:24 0
およそ人事の大小軽重については言うまでもなく、政治や商業、
学問、宗教などを問わず、往々にして争いが生じ、ひどいときには
公然たる敵対の惨状を現して、互いに害するものさえあるという
ことは、世の中の人々があまねく知るところであろう。
だから、その争論、敵対の裏面からうかがって内実を視察すれば、
ただ双方の情実が通達することなく、俗にいう所謂行き違いを
生じたものである。時に及んでこれを整えようとすれば、無事に
解決するものが多いということもまた人々の知るところであろう。

54 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/27(木) 22:42:56 0
このように大切な場合においても、男女の情交に頼ってこれを
活用できるのとできないのとでは、その利害は言うまでもなく
明らかである。確かに、西洋の文明諸国において交際のことは
専ら婦人によって司られるものである。たとえその身が直接
社会の事務に当たっていなくても、間接的に男子の心事を
調和してその事務を円滑にし、行き違いの害悪が少なくなると
いうことは争うことのできない事実である。

55 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/09/27(木) 22:48:15 0
つまり、一国の事務は一国民が負担すべきものであるとして、
文明諸国においては男女の間でこれを分担しているのである。
しかし、わが日本などはただ人民の半数である男子だけの
負担となっているがために、他の国とわが国の国民の智徳を
同水準とたとえたとしても、その国を維持する力は半数の違いが
あると知っておくべきである。


56 :名無しさん@HOME:2007/10/04(木) 14:37:05 O
保守

57 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/05(金) 06:41:41 0
古人の言葉は世教となり、世教は習俗となり、習俗は社会の圧制と
なり、我々男女の交際を妨げて人間社会上の大利益を失ったという
ことは、前の文章で述べた。
えは、公の社会ではなく、この社会の圧制が個人の家において
どのような影響を及ぼしたかといえば、その害は言うに忍びざる
ものがある。

58 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/05(金) 06:46:35 0
夫婦の関係は人間の一生の関係であり、その結約の時にあたっては
双方が互いにその人を択んで、真に本人の意に背くことがあっては
ならないのはそもそも当然のことであるが、男女近づくべからずと
いうのが社会圧制の厳命であるから、まさに矛盾しているのである。
男女が共に成長して、やっと結婚できる年頃に達した頃にはますます
遠ざかることとなり、互いに言葉を交えるにもなにかと周囲に遠慮
することになり、自由にならない。そればかりか、互いにその姿を
見ることさえ容易には許されないのだ。

59 :名無しさん@HOME:2007/10/10(水) 22:17:35 0
保守

60 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/16(火) 23:53:26 0
このように、男女の間にはあまりにも大きな距離があり、まるで
別天地に住んでいるかのような境界を成している。
だから、いざ縁談に臨んでその本人たちがお互いのことを知ろうと
しても手段がない。
昔、封建の武家においては家のために結婚するというのが普通だった。
双方の醜美、年齢、智愚を問わずに奇々妙々な夫婦が作られていった
例はさしおくとして、世間の心ある父母はその子女に婚姻を強いる
ことはなく、たとえ父母の目によって相手を択んだとしても、本人の
本意を丁寧に反復して聞きただした後にはじめて決定していた。
これは良家において行われていた習慣であった。
しかし、その当局者である子女が普段から他の世界を知らなければ
これを判断するのは困難であっただろう。たとえ密かに外の世界を
知っていたとしても、判断を口にするのには非常に躊躇したようだ。

61 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/16(火) 23:55:55 0
このようにうまくいかないのは、男女がお互いを知ることが社会の
圧制により禁じられていたため、いわば知るべきでない者を知りたがろう
とした結果によるもののである。このようなありさまでは、往々にして
不如意の結婚をしてしまう者も少なくなかったであろう。
人生でこれほど大きな不幸はない。

62 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/17(水) 00:02:23 0
では、結婚が自分の思い通りになった者は果たして幸福を全うして
愉快にしているかといえば、そうでもない。
古くの聖人の教えに「夫婦別あり」というのがある。私には聖人の
深意ははかり知れないのだが、後世の学者がこの教えを解釈して
社会の人々の心にしみ込んでいるのを見ると、別ありというのは
他人らしくするという意味であるということがわかる。夫婦の間は
ややもすれば親愛にすぎるがために、なるべく互いに疎遠にするのが
人倫の道であると信じ、それに加えて男尊女卑の弊害もあり、夫が
その妻を見下して疎外し、軽侮する様子はひどかった。

63 :名無しさん@HOME:2007/10/17(水) 22:55:21 0
>>62
>夫がその妻を見下して疎外し、軽侮する様子はひどかった。

色んな意味で”小さい男”が虚勢を張る為に妻を見下す・・・
なんかもう「必死だなw」という言葉以外に思いつかないわ

64 :名無しさん@HOME:2007/10/26(金) 09:46:44 0
ほしゅ!

65 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/29(月) 22:41:33 0
支那に一つの奇談がある。昔、周の世の冀州に、郤缺という人が
生活に困窮して農業をしていた。その妻が畑の中で弁当を彼に
すすめていたとき、その様子は非常に敬って賓客をもてなす
かのようだったという。夫もまた正しくこれを受けて馴れ馴れしく
ならずにいたということで、天下の一美談となっていた。
後世の人がこれを想像して絵にしたものを見る機会があったが、
一人の男子が傲然として筵の上に座り、ただひとり弁当を食べる
その傍らに婦人が恭しく地にひざまずいて給仕するという絵で
あった。

66 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/10/29(月) 22:45:51 0
私はこの絵を見て、驚かざるを得なかった。貧しい書生が貧しさの
あまりに農業をするならば、その弁当を食べるにも夫婦が親しく
食べ物を分け合って食べ、貧しさを共にして2人で楽しむという
のが人情であろう。
しかし、この絵の趣旨としては、この貧乏人がこの貧窮に陥り
ながら、なお夫婦が分け隔てのある姿であることを装って、
苦しき中にも男尊女卑の精神を忘れてはならないという教訓と
して描かれているのだ。

67 :名無しさん@HOME:2007/10/29(月) 22:48:43 0
>苦しき中にも男尊女卑の精神を忘れてはならないという教訓

(;'A`...........

68 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/03(土) 22:15:16 0
これはただおかしく、気の毒にこそ見えるのだが、後の世の夫婦は
これらの虚飾を重要な徳であると心得て、ますますその虚を拡張し、
本心はそうでなくても、その家風を外面を見れば、夫婦は親愛の
朋友ではなく疎遠な主従であるかのようにして、妻が朝夕恐れ
ながら仕え奉って、主人はこれに接するのに優しい言葉もなく、
双方の間には溢れる愛情を感じることができないようにするのが
理想であるかのようにしてきた。

69 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/03(土) 22:19:44 0
ひどいものになると、妻が病気と聞いてその様子がどうなのか
尋ねる人がいると、夫はわざと平気な顔色を装って、容態を
詳しく語ろうとはせず、「最近どこか痛むところがあると
言っているから困っている」などと冷淡非情に答える人もいる。
これではまるで無関心である。

70 :諭吉(地方出張中):2007/11/10(土) 11:29:49 O
保守である。

71 :名無しさん@HOME:2007/11/12(月) 20:12:42 0
保守です

72 :名無しさん@HOME:2007/11/18(日) 20:50:11 0
保守します

73 :名無しさん@HOME:2007/11/23(金) 20:26:06 0
hosyu

74 :名無しさん@HOME:2007/11/23(金) 22:54:46 0
ほしゅ

75 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/25(日) 10:28:29 0
そもそも、無頼の蛇や蠍の男でもない限り、人生の至情において
常に自分の妻を親愛しない者が誰かいるであろうか。ましてや
妻が病気のときなどは最も心配するときであるのだから、あれこれと
いろいろ心配して、心が乱れて麻のようによじれるのは実際のこと
であるだろうに、その外面を取り繕って無情を装うとはいったい
どういうことであろうか。ただ社会の圧制に迫られて夫婦の本当の
姿を現せないでいるだけでなのではないか。

76 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/25(日) 10:33:04 0
川柳の句には「二、三丁出てから夫婦連れになる」ということがある。
元来、男女の自然なありかたとしては、夫婦になれば散歩するにも
自分の家から二人揃って門を出ることが本意であろう。しかしそうでは
なく、門を出てから二、三丁の間はわざと道を前後にして、約束の
場所で初めて連れになるのはなぜだと尋ねれば、「ほかでもない。
家の近所では顔を知っている人が多く行き来するから、夫婦連れでは
何分にも・・・。」と答えるという。つまり、この事情を説明する
ならば、二、三丁の後に連れになるというのが夫婦の本来の姿で
あり、二、三丁にいたるまで連れになれないというのが社会の圧制
によるものである、といえるだろう。

77 :名無しさん@HOME:2007/11/25(日) 20:06:47 0
家を出てから二,三丁か。
私は夫とよく夕方待ち合わせするのだが、(夫の)会社のすぐ近くでは
いちゃいちゃするなと言われている。社会の圧制によるものだ!!
なんつって。夫いわく、恥ずかしいから、だそうである。
まあ、数ブロック離れても手をつなぐ程度のいちゃいちゃ加減なのだが。

78 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/27(火) 06:08:25 0
以上はほんの一、二例を出したまでのことで、なおこのほかにも
家庭の内情を探れば、上下貴賎を問わず家の組織は一から十に
至るまでとにかく夫婦の間は疎遠であればあるほどよいとされる
風潮がある。夫婦が疎遠であることが家の美事であり、主公が厳で
細君が貞であることを郷党、朋友、親戚に至るまでの人々が
これを称賛する雰囲気がある。そればかりではない、近くにおいては
同居している舅、姑などは最もそのあたりに注意しているから、
一方では婿と嫁の睦まじさを喜びながら、また一方では疎遠である
ことを祈り、いやしくも双方の情に優しきものがあるのをおおっぴら
には喜ばない。

79 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/11/27(火) 06:14:38 0
例えば婿が旅行するとき嫁が別れを惜しんだり、嫁が病気のとき
婿が親切に看病などすればそれは見苦しいとされ、舅や姑の
意に逆らうこととされるのは珍しくない。なお、その極端な
例としては、舅や姑が極めて無情である場合、ただ様々な難題を
持ち出され、男女は陰だ陽だと言われたりして、言うのも憚られる
くらいの邪魔をされることもある。
私に言わせればこれは舅姑の「不人(inhumanity)」にほかならない。

80 :名無しさん@HOME:2007/11/27(火) 12:57:24 0
なんかほんとに男女の愛情を深く信じている人なんだなあと思う。
この時代にこういうこと言える人ってすんごい勇者だ。
嫁さんがいてこんな事言えていたとしたらもう英雄の域だ。
でも、現代でこんな理想的な論を述べてしまったら最後、
男女厨に「女に媚びる必死な童貞乙」とかボコボコにされて終わりだろうと思うと悲しい。

81 :名無しさん@HOME:2007/11/28(水) 14:00:26 0
>>79
>嫁が病気のとき
婿が親切に看病などすればそれは見苦しいとされ、

いるよね、そういう馬鹿なウトメ
何でも都合の悪い事は全て嫁のせいで

そんな親に育てられた婿(旦那)は当然モラハラで、奥さんはうっかり風邪もひけない
ちょっと寝込んだだけで「俺の飯は(ry 」なんだよね ('A`)

82 :名無しさん@HOME:2007/11/28(水) 19:17:42 0
>>79
>なお、その極端な
>例としては、舅や姑が極めて無情である場合、ただ様々な難題を
>持ち出され、男女は陰だ陽だと言われたりして、言うのも憚られる
>くらいの邪魔をされることもある。

もっとkwsk
言うのを憚らずkwsk

83 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/12/04(火) 15:12:05 0
また、古来今に至るまで我が国日本には情死の例が非常に多い。
そもそも情死には様々な種類があって、中には男女の一方が
所謂片想いをしてこがれるあまりに死ぬこともある。また、
最愛の一方が死んだためにこれに殉死することもある。
情死はどの国にもあることだろうが、日本の情死、つまり俗にいう
心中とは、男女が互いに非常に愛し合っているのに、父母や親戚に
許されなかったり、世間の人々の言葉に邪魔をされるなど、
さまざまな障害のために愛をまっとうできなくなり、二人で相談した
結果、生きて空しく苦しむくらいなら共に死んだほうがよいとの
愚かな考えから起きることである。このような情死は西洋諸国を
はじめ、支那や朝鮮などの外国では非常に稀であるという。

84 :中上川彦次郎(諭吉の甥):2007/12/04(火) 15:18:36 0
他国では稀なのに日本に限って多いのはなぜか。
日本の男女は他国に比べて必ずしも無分別であるとはいえないだろうが、
男女の関係について特に社会の圧制がひどいことは、特に日本に限って
のことであるとみることができるだろう。
私は情死の愚かさを見て加勢に加わろうとは思わない。痛くこれを
嫌悪するのであるが、また思い直して人生における人情を考えると、
社会の圧制がもう少し寛大であったならば、大勢の情死をとげた
人々の中にはもしかしたら何事もなく存命して、良家の夫婦になれた
かもしれないと思うと、嫌悪の中にもあわれみの気持ちがわいて
くるのである。
このあたりからみると、社会の圧制はついに不人の領域に達している
といえるだろう。

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