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【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】

1 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 20:22:00 ID:z52DR1MP
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)

2 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 20:48:20 ID:FZu3jxim
どもノ

3 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:08:21 ID:0BV0dC3l
スレたてありがとうございます!

4 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:20:15 ID:0BV0dC3l
早速ですが・・・妙好人さまへ
 親鸞聖人のお言葉に、
 「誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞。愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず。恥ずべし、いたむべし」とあります。
信心獲得した時の喜び、それは時と共に味わいが変わってくるのでしょうけれど、「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」
というような疑問が沸いてくるようなことはあるのでしょうか。その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、
どのような感じなのでしょうか?

5 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:30:05 ID:GIWbmUZl
また渡海難が荒らしに来るのか

6 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 01:03:52 ID:u0pd2ELf
>4
ある坊さんが、信心がないと悩んでいた。
そして、妙好人として名高い三河のおそのさんを呼び、
意見を頂戴しようとされた。
坊主「私は寺に生まれ乍ら、信心がない。
どうか、信心とはなんたるか教えてほしい」
おその「私にも仏法尊む心がない。
ないからこそ、必ず助けるという仏法様がうれしい」と。
坊主「あなたは妙好人と呼ばれるような人、
すなわち仏法を間違いなく領解している方でしょう。
そんな薄情なことを言わず、私に意見してほしい」
おその「私が仏法をちゃんと理解していると思っておられるのか?
先程、言ったことは嘘じゃない。私は、これっぽっちも、仏法を理解していない。
理解できない私だからこそ、仏さまに助けられるのがうれしい他ない」と。


7 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 03:00:26 ID:SyGI1ge2
知識で助かるわけではないが、知識がなしでは不安な私。
どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。
無限ループの繰り返し。他事を考えていても、いいとは思えず、仏法を考えても、無意味感に苛まされる。

8 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:15:19 ID:spwiENgR
・・・妙好人さまへ
って見てたらなんか昔のアニメの『お兄さまへ・・・』ってのを思い出してしまった。

9 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:38:22 ID:0zQrBclm
>信心獲得した時の喜び、それは時と共に味わいが変わってくるのでしょうけれど、「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」
というような疑問が沸いてくるようなことはあるのでしょうか。その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、
どのような感じなのでしょうか?

ここ3日間ほど回答させていただいているものです。
スレを立てていただいた方、お疲れ様でした。ありがとうございます。
また仏法(信心)のお話をできる場所を作っていただいて、とてもうれしいです。ほんとうにありがとうございます。
遅い時間ですが、寝る前に答えさせていただこうと思います。

>「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」 というような疑問

そりゃ出ますよ。108個の煩悩の中に「疑う」という煩悩がありますから。わたしはなんでも疑います。
ただ、親鸞会では「本願への疑いは二度と出ない」と強調されていましたが、これもものすごく誤解を招くおそれがある表現だと思います。
私が親鸞会にいた時は、「本願への疑い(自力)が出ない」は、イコール=「つねに阿弥陀仏の本願が信じられる」というニュアンスで教えられました。
けど、「つねに阿弥陀仏の本願が信じられる」というのは、凡夫では無理です。それは悟りを開いた菩薩さまじゃないとできないことです。
それに「自分があのとき信心決定した体験」だって、もしかしたら夢の中のことかもしれない。ただの思い込みかもしれない。
そういう意味では、信心決定体験は、あやふやなものです
(もちろん、とんでもない驚き・感動はあるのですが、わたしの脳みそは夢の中のことを現実と思い込むことがあります。
 また、自分の過去の体験を、客観的に真実だ、と証明できないという特徴ももっていますし)。

じゃあ、未信のときとは何がちがうのか?
信心決定体験の時に、何が断ち切られるのか?何が出なくなるのか?
それは、『「本願を疑うこころ(こうすれば獲信できるのじゃないか?というこころ)」を「握りしめるこころ(執着・こだわり)」』を断ち切られるのです。
(たんなる煩悩の「疑い」ではない)
そして、本願を「聞ける」ようになる、ということです。
ややこしいとこですが、ここは誤解されている方が多いと思います。ええ、わたしもきちんと誤解してました。

10 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:39:36 ID:0zQrBclm
>その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、 どのような感じなのでしょうか?

わたしは、絶対に本願を聞かないもの・絶対に念仏を称えないものだ、という「確かさ」「間違いなさ」です。
これをきっちり教えてもらえば(思い知らされれば)、おのずと本願を聞かされます。
そして本願を聞くと、「浄土往生」「必堕無間」がハッキリします。
だって念仏がわたしの口から出ているんだから。
阿弥陀仏は、地獄に落ちるものに、必ず念仏を届けてみせる・となえさせてみせると約束なさって、その願いを達成なさったのだから。
(もちろんわたしがそこまでたどり着くには、獲信者による多くのアドバイスが必要でしたが。)

南無阿弥陀仏

11 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:53:50 ID:0zQrBclm
>どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。

これは・・・もっとも難関なところですね。ここがあるから、良質な獲信者によるアドバイスが必要となってくるのですが・・・。
とにかく、文章でなんとか答えさせていただきます。
おっしゃっておられるように、「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」というのは、根性でがんばる限り、当然無限ループに落ちます。
じゃあ、どうすればいいのか?
これは、求道者の求道の進み具合によって、答えが変わってきます。
なので、すみませんが、まず、7さんに質問をさせてください。

Q1、7さんは、無常を感じられますか?「もう、本当に今日死ぬ可能性をありありと感じられる。」という状態ですか?目の前に「死の穴」が見えますか?
   それとも「無常と聞いているけど、本心はあまり死ぬとは思えない・・・」という状態にちかいでしょうか?
Q2、7さんは、罪悪を感じられますか?「今日も鶏肉を食べた。これはもう、必ず因果の道理によって、必ずわたしが食べられる日が来る」という反省がありますか?
   また、その反省から、殺生をゼロにしよう!と思い、実行しておられますでしょうか?
   それとも「罪悪と聞いているけど、いくら罪だと聞いても、夕食には鶏肉をおいしく食べられるなあ・・・」という状態にちかいでしょうか?
Q3、7さんは、自分が後生の一大事を感じられますか?本当に地獄に落ちると思いますか?自分が落ちる地獄の業火が、目の前にありありと見えますか?
   それとも「後生の一大事と聞いているけれど、いくら後生は地獄と聞いても、本心では実感がない・・・」という状態にちかいでしょうか?
ちなみに、わたしは、恥ずかしながら、答えは全て後者です。

もしさしつかえなければ、お答えいただけると、なにか7さんの求道のお役に立てることを書かせていただけるかもしれません。


12 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 08:01:47 ID:z/yn+x2b
ご存知の方、教えてください。

■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」

疑問@ 根拠は何?
疑問A「自力一杯、もとめたことがある者に、自力無功と知らされる筈です。」といえるのか?

■『本願寺 なぜ 答えぬ 親鸞会 かく答える』(by顕徹)より
「仏教で修善をすすめるのは獲信の方便(因縁)に、ほかならない。
″獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり″親鸞聖人の、ご金言である。」

疑問@聖道門ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?
疑問A浄土宗ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?
疑問B秘事法門ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?



13 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 08:39:15 ID:jOroAPwa
>>10
>>その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、 どのような感じなのでしょうか?

>わたしは、絶対に本願を聞かないもの・絶対に念仏を称えないものだ、という「確かさ」「間違いなさ」です。
>これをきっちり教えてもらえば(思い知らされれば)、おのずと本願を聞かされます。
>そして本願を聞くと、「浄土往生」「必堕無間」がハッキリします。
>だって念仏がわたしの口から出ているんだから。


う〜ん
昔、深沢七郎の「楢山節考」という小説を読んだ時の読後感を思い出した。

14 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 09:22:55 ID:rJuuVAR9
>>12の質問を教学論争ととるか、それとも信心についての純粋な疑問ととるか。
今後も出てくる質問の形式と思えるけど、本スレではどうだろう。


15 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 09:34:54 ID:PRn1yQEq
講師にでも聞けよ

16 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 10:44:47 ID:uvzViE5F
>>11
>どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。

この人は「自力一杯、もとめて」いるように思いますので、次の不審が
>■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
>「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」
>疑問@ 根拠は何?
>疑問A「自力一杯、もとめたことがある者に、自力無功と知らされる筈です。」といえるのか?
このスレとまったく関係ないようには思えなかったので質問いたしました。
邪魔ならおっしゃってください。

>おっしゃっておられるように、「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」というのは、
>根性でがんばる限り、当然無限ループに落ちます。

「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」とは私を助けんがための
阿弥陀様の五劫の思惟・永劫のご修行のご苦労と聞かせていただけば、
こちらには用意はいらないと知らされますが、いかがでしょうか?

>>15
>講師にでも聞けよ

このご回答がこのスレの趣旨でありましたら、
ご遠慮いたします。

17 :妙好人さまへ:2007/10/08(月) 14:21:13 ID:RkcssVDi
前スレより参りました。レスありがとうございます。
>獲信体験は、合点の大きなものだとか、脳内作用だとかいう、いわば「相対的体験説」
>を主張する人がいますが、体験者として、これを明確に否定されますでしょうか?
>あくまで超越的な絶対的な体験なのでしょうか。この質問は、高森氏が「次第に」迷雲
>が晴れたことと絡んで大きな疑問です。

以上の私の質問に対し、以下のようにお答え下さいました。

>>906
>でも、そのドーパミンも後生にはたよりになりません。
>なので、もっと大事なのは、聞く(聞即信する)ことですね。

とのことですが、これは「相対的体験説」を明確に否定されていると解釈して宜しい
でしょうか?その場合、次のご発言との整合はどのようにお考えになりますか?

>>650(前スレ)
>ちなみに高森氏は獲信体験があったのだとわたしは推測します。
>ただ、もともとの気性が激しかったそうですし、信後の聴聞も怠ったのでは・・・?

それとも、「次第に迷雲が晴れ」ることも、

>>904(前スレ)
>「獲信体験」自体は、あらゆる種類があります。

の一つとして位置付けることは可能なのでしょうか?

18 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 14:27:40 ID:GpZIaesS
<重要なお知らせ>

ここは親鸞会とは無関係のスレです。
親鸞会の関係者は来ないでください。
親鸞会や高森顕徹氏の話題は親鸞会のスレでお願いします。
以後、これらの話題に触れるのは禁止です。

また、渡海難氏もこのスレには来ないでください。
来ただけで荒れる恐れがあるのでお願いします。

19 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 16:58:36 ID:gtK5vMGh
>>9
前スレより
>935 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 02:44:00 ID:AxpkBOoS
>凡夫は、憎しみに悩み、寂しさに悩み、くやしさに悩み、おだてられて有頂天になり、他人に勝とうと思う、というしょうもない心しかありあません(わたしの場合)。
>ですが、つらい時、苦しい時に阿弥陀仏の本願を聞けば、そういうときほど有り難い。
>「有り難い」なんて軽くいいますが、ほんとうにウルッと涙が出るんですよ。
>本当に孤独なんだなー、本当に死ぬ時って1人なんだなー、わたしの味方なんていないんだなー、と絶望するときに
>本願を聞けば、「ああ、世界一の応援者がいた!いつ死んでも必ず救うぞ、今死んでも必ず浄土につれていくぞ!」といってくださる方がわたしにいる。
>どんなに孤独でも、1人じゃない。だれが非難しようとも、阿弥陀仏だけは「おまえが可愛くてたまらん」とおっしゃってくださる。

>後生の苦はなくなるし、上に書いたような安心感はたくさんいただけるし。幸福感はムチャクチャ多いですよ。

と語っておられますが、道を歩いている時、電車に乗り遅れそうになって駆け出している時、会社で仕事に集中している時などでも、念仏を唱えるたびに
「有難い」という気持ちで胸が一杯になるのでしょうか?

親鸞聖人は歎異抄九条で
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと・・・・・・・・・・
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。」
と述べておられるようですが

20 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 18:03:15 ID:6Mbvddpg
>>656 :神も仏も名無しさん:2007/10/03(水) 09:08:56 ID:4TDRVsmv
>>「信後の聴聞」とは具体的に何かを指しますか?
>>たとへば、念仏・説法・聖教拝読・お勤めなど。
>>これらは「信後の聴聞」にならないのでしょうか?

>しっかり聞く耳を使う人なら、別に念仏やお勤めじゃなくても、目の前の食事が仏さまの説法として聞こえてくることもある。


獲信した後に会社や家族の身近な人々の存在や、
金銭などに対する価値観などに変化が生じたならば、
教えていただきたいのですが。

21 ::2007/10/08(月) 21:15:41 ID:SyGI1ge2
>>9-11 ご丁寧なレス大変ありがとうございます!感謝しています。

ご質問についてですが

Q1 無常について・・・明日、いや今日も死ぬ日かも知れないなぁ・・・というのはボンヤリと毎日感じます。死を思わない日はありませんが、今!まさに死!という切迫したものはなく、本心はのんきそのもの、大事なことは全て先延ばしなのです。

Q2 罪悪感について・・・魚を捌かれる、ああいつか自分もこう捌かれるのも仕方ないのかな、肉を焼けば、いつか自分も焼かれるのだなあ、と考えることはありますが、それでも食べているときはおいしいばかり。すぐに忘れておかわりしてしまいます。

Q3 自分の後生の一大事・・・死んだらどうなるんだろう?と考えればどこにも答えと確信できるものがなくて、暗い気分にはなりますが、地獄の業火が目の前にありありと見えることはありません。自分の未来がどんなものか、はっきりと何かを感じたことがありません。

今週、お勧めの本をいくつか入手するために京都へ行きます。仕事のついでなので聴聞してまわることは出来ませんが、もしかたら獲信者の方にお会いできるかもしれないとワクワクしています。ボンヤリと自身の問題を放置する期間はもう過ぎたと感じています。
もう無駄足を恐れていても、仕方ないですから。。

22 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:35:01 ID:0zQrBclm
>と語っておられますが、道を歩いている時、電車に乗り遅れそうになって駆け出している時、会社で仕事に集中している時などでも、念仏を唱えるたびに
「有難い」という気持ちで胸が一杯になるのでしょうか?

念仏となえるたびに有り難い気持ちで一杯になる・・・、うーん、わたしもそういうイメージを持っていましたが、実際はちがいました。
念仏をとなえるたびに、ではなく、「聞く耳を使うたび」(=聞即信するたび)に有り難い気持ち&申し訳ない気持ちになります。
それで、聞く耳を使うと、お念仏が出ないわたしから、お念仏が出てくださる。
なので、念仏というよりも、まず阿弥陀仏の本願を聞くことが大事ですね。

これを聞かなかったら、自分の口から出ている念仏の意味が分からない。
言い換えると、生きたお念仏に出会えない。お念仏が「本当に阿弥陀仏からの最高のプレゼントだった」ということが分からない。
俗っぽく言うと、いちばんおいしい部分が味わえないわけです。

>親鸞聖人は歎異抄九条で
>「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと・・・・・・・・・・
>踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。」
>と述べておられるようですが

これは、その通りでしょう。「わたしは、仏法に対して喜びの心もあります。はやくお浄土に行きたいです」なんて言う人は、
凡夫というより悟りを開いた菩薩です。
でも、仏法を喜ぶこころがまったくないわたしの後生をかならず救う、という本願は、
仏法を喜ぶこころが自分にはまったくない、ということが思い知らされると、
とてつもなくありがたい・申し訳ない・うれしい・たのもしい。
親鸞聖人も、念仏をとなえていながらも喜べない自分を発見されて、とても阿弥陀仏の本願がありがたかっただろうな、だと推察します。
だって、後生の地獄を救う功徳がつまった念仏をとなえていても喜べないような人、こそをかならず救う、というのが阿弥陀仏の18願ですし。

ちょっと中途半端ですが・・・すみません。

23 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:47:07 ID:0zQrBclm
>獲信した後に会社や家族の身近な人々の存在や、 金銭などに対する価値観などに変化が生じたならば、
教えていただきたいのですが。

うーん、基本的に変わってないです。わたしの本性には変化なし。
お金は欲しいし、家族にも腹は立つし・・・。

ただ、そういうしょうもない煩悩しか持ってないわたし、その煩悩で罪ばかりつくってあとは地獄に落ちるのを待つばかり、
という状態のわたしの後生をかならず救う、という阿弥陀仏の本願を聞くと、感謝と懺悔の念が生まれます。
こんな感謝と懺悔の念なんて、わたしの本性から言ったら、絶対生まれるはずないんですよ。
でもね、聞けるはずのない本願を聞かせていただくと、生まれるはずのない感謝と懺悔が生まれる。
そして阿弥陀仏は、わたしの後生をかならず救う、とおっしゃってくださっている。

本性は変わらないし、他人を殺してでも自分が生き延びたい、という人でなしのわたし。
そのわたしの後生を救う、と聞くと、不思議なことにありがたい。
ありがたいから人にも伝えたくなる。人に仏法を伝えるこころなんて全くないわたしが。

で、仏法伝えたいから、友達に家族にやさしくしよう、という気持ちも生まれる。
本心から友達や家族にやさしくしよう、なんて思わない私が。
お金も、なるべく無駄使いせず、仏法を広める活動資金にあてよう、と思う。仏法が尊いなんて、まったく思ってないわたしが。

うまくいえませんが、このような変化はありました。
自分中心(いわゆる自己中)でしかモノを考えない本性は、まったくそのまま存在していて変化はゼロでしたが・・・。
本性が変わらない、という点では、浄土真宗の教えを聞いても「いいひと」にはならない、といえると思います。

24 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:53:00 ID:0zQrBclm
>21 今週、お勧めの本をいくつか入手するために京都へ行きます。仕事のついでなので聴聞してまわることは出来ませんが、もしかたら獲信者の方にお会いできるかもしれないとワクワクしています。ボンヤリと自身の問題を放置する期間はもう過ぎたと感じています。
もう無駄足を恐れていても、仕方ないですから。。

求道を本格的に開始されたのですね。うれしいです。
たしかに獲信者の数はとても少ないですが、ていねいに探していけば、必ず出会える程度には存在します。
このように足を踏み出す方(後生を自分の問題ととらえている方)は、絶対に聞かせてもらえます。
どうぞ、あせらず、変な組織や個人には気をつけながら、求道なさってください。
でも、うーん、いや、ほんとにうれしいです・・・・、
こういう真摯な求道者がおられるから、わたしも本願を聞きつづけさせていただけるのだと思います。

南無阿弥陀仏

25 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:10:49 ID:0zQrBclm
>21

で、無常・罪悪・後生の一大事を、あんまり真剣に感じられない、とのことですが、
阿弥陀仏は「無常・罪悪・後生の一大事を、あんまり真剣に感じられないような人」をこそ救う、とおっしゃっておられます。
罪悪の重い人、どうしようもない人、仏法を求めない人、仏法が理解できない人、そういうダメな人こそ救うよ、と。
阿弥陀仏の本願(お約束)ですね。
つまり、阿弥陀仏は21さんの後生をかならず救うよ、とおっしゃっておられる、それが阿弥陀仏の本願。
21さんの口から、万善万行の功徳のかたまりである念仏を「なむあみだぶつ」ととなえさせて、それで21さんの後生を必ず救う、と。

「どうすればいいのか」というこころを、どうしても捨てられない21さんを救う、
「どうすればいいのか」というこころをどうすれば・・・というこころを、どうしても捨てられない21さんを救う、
・・・・・
21さんの全て(体の行いも、こころの行いも全て)を救う、というのが阿弥陀仏の本願。
なので、「どうすればいいのか、というこころも捨てられない」という21さんも、救いの対象なんです。
このように、「どうがんばっても、うまく求道できない自分」すらも救う、というのが阿弥陀仏の本願。
「どうがんばっても本願を信じられない・理解できない」という人を救うのが阿弥陀仏の本願なんです。

ここらへんが求道で、最も難関ではあります。
とにかく、出てくる自分の思いをいったん認めて、でも
「そういう思いがでてくる自分の後生を救う、と阿弥陀仏はおっしゃっている」と聞いていく。くりかえし本願を聞く。

この「本願を聞いていく」という作業は、未信も信後もまったく同じです。
とにかく、くりかえし本願を聞く。
自分の思い(どうすれば・・・など)にとらわれずに、本願を聞く。
自分の思いにとらわれたら、とらわれたまま本願を聞いてみてください。


こんなことをオススメするのは、
わたしが聞即信にたどり着くのに、本願をくりかえし聞く(=何回も聴聞する)のが必要だったからです。

26 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:16:47 ID:DVdr9bRD
7さんこんにちは私も救われました。このような形で救われた方がおられる
ことを知り、うれしく思います。頑張ってください。

27 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:39:01 ID:u0pd2ELf
>16
>■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
>「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」
>疑問@ 根拠は何?
横レスすみません。@根拠は、独自の三願転入観によるものかと思われます。
@第19願の実践。
「諸善万行ことごく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」
『愚禿鈔』には、「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて、
以外の、大(乗)小(乗)・権(教)実(教)・顕(教)密(教)の
諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。
また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門
といふなりと知るべし。」とあります。「浄土回向発願自力方便の仮門」とは、
第19願・第20願のことを指します。第19願は、菩提心をおこして、
もろもろの功徳を修行して、心を至して、浄土に生まれようと願う者が
対象とされ、その者は、臨終に迎えとると言う誓いですから、
まずここから、実践しなさいというのが、親鸞会の考え方でしょう。
親鸞聖人は、『観経』の表向きの説き方は、第19願の諸善功徳を顕らかにしたもの
と、とらえていらっしゃる。親鸞会の考え方に沿えば、
『観経』に説かれるところの定散二善をまずやってみろと言うことになりましょう。
最終的には、定散の修習に耐えられない自分に気付き、
自身は下々品たる身と内省されると、そこに「具足十念 称南無阿弥陀仏」とある。
そこで、はじめて八十億劫の生死の罪を除くのは
「弥陀の名号を称えること」と知り、第20願に転入していく。


28 :22:2007/10/09(火) 00:05:51 ID:iHgMq0SW
>>23-24
「乗っていた飛行機に大穴が開いて落ちていくのだと思ったら、
実は阿弥陀様の手の上に乗って救われていたのだ」という感じがしました。

まだ実感が湧きませんが、なにかとても惹かれるものがあいます。

上のほうに書かれていた楢山節考の話なんかも面白かったです。
是非今後とも、いろいろと教えて下さい。
これを糸口に獲信者にお遭いすることが出来ることを願っています。

29 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 00:56:03 ID:VUakfL0T
>27続き
を書こうと思いましたが、億劫なので、江戸っ子的には、しゃらくせぇので、
真実義のみを書きます。つまり、19・20・18と、私の人生暗かったということです(古)。
親鸞聖人は、比叡のお山で常行三昧堂で修行されていたそうであります。
このことは、『恵信尼文書』が発見されるより、もっと以前より、
指摘されています。蓮如上人は、本願寺に常行堂を建立すべき
遺言を残されており、山科に、その後、建立されています。
この修行を第19・第20願修行時代と配当できないか?ということです。
常行三昧とは、90日間、念仏を称しながら、
阿弥陀仏像の周りを不眠不休不座で回る行を言います。
死者が相次いだため、江戸時代には封印されたと言う修行です
(酒井大阿闍梨が近年行っておられます)。
それこそ、命を懸けた求道でありましょう。
もし、親鸞聖人の体験(三願転入)を追体験するのであれば、
常行三昧をせよ、と言うことです。
口先だけの三願転入など、何の意味をもちません。
その後、親鸞聖人は吉水法然上人の許に参じ、
たちどころに他力摂生の旨趣を受得(『御伝鈔』)された。
親鸞聖人が勧められたのは、紆余曲折の自力行ではなく、
法然上人の許での、一切衆生を洩らさず救う、他力念仏のみ教えでした。
本師源空いまさずは
このたび空しくすぎなまし
出離の強力な縁も因も、他力念仏の他なし、と示されたのでした。
故に、お勧めはただひとつ、他力念仏に帰入せよ、であります。
しかしながら、今までの修行はムダだったのかと言うと、
さにあらず。これも、一切衆生が『平等に』救われる法に、
出遇わせて下さった阿弥陀如来のお手回しだったのだと、
そう読めば、第19願、第20願の役割が自ずと知れるわけです。


30 ::2007/10/09(火) 08:20:02 ID:OCt26LC+
親身に回答して下さり、本当にありがとうございます。
>>25・・・摂取不捨の光明に救い採られるには、調熟の光明によるお育てが必要、ということでしょうか。
何度も何度も聞かせていただきたいと思っています。

本願不思議の世界は未だ知らない世界ですが、そもそも自分が存在すること自体が今の自分には不思議極まりないことでして。
数多ある人生哲学、理念、宗教、の中で、浄土真宗に巡り合えたことも不思議です。
これこそ真実だと思うのは、無学で無思慮な自分の早とちりなのか、強縁によってそう思わさせていただいているのか?
考えるほど何がなんだか分からなくなってきますが、道を求めていきますね。

31 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 09:05:34 ID:8+0aZzDE
ならば、極楽浄土の存在を証明してみろ? 脳内でバーチャル極楽を作り、救われた気になってる奴はしあわせ。ないはずのものをあると思いこみ、死んでいける。また、それも人生なのかもしれぬのぅ。

32 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 09:41:16 ID:vERZKabd
>>31 極楽浄土の存在の証明が気になることはいいことかも。
面白いのは、極楽浄土を「ないはずのもの」と「信じている」という点。ないと思うものをないと証明することはとんでもなく難しいのに、ないと信じられる自分に何か疑問を抱きませんか?

僕は死後の世界が存在しないことが証明されるまでは不安が尽きない性分なんで仕方がありません。
自分自身だと自分が思っている自分というものが、この肉体がある間の化学反応の産物にすぎず過去世もなく未来世もなく、
心というものはどこまでも即物的なもので死と共に霧散し絶対に消え去るとハッキリ証明されたならどれほど楽チンだろう。
残念ながら科学はまだまだ不完全で、その基礎となる数学ですら証明など出来ない命題があることが証明されてしまった現在、
ただただハッキリしているのは「自分にとって」世界も自分も不確かで、これが答えだ!という証明が未だに僕は知らないということぐらい。


33 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 10:58:04 ID:VUakfL0T
(浄土)はあるのでもなく、ないのでもなく、他によって存するのでもなく、
自ずから存するのでもない、何によって存すると言えるのだろうか?
『中論』を著された龍樹菩薩ならば、そうお答えになられるかもしれません。
( )には、どのような語句を入れてもかまわないのですが。
有無の戯論は、縁起(相互依存・相依性)の道理によって、悉く破されます。
ただ、私たちは傷つけられれば、痛い、苦しい、「痛み有り」と
思うのです。それは縁起に依るからと頭では理解できても、
また『唯識』からすれば、ただ阿頼耶識に薫習された種子が現行した夢まぼろしに過ぎないと
理解できても、痛いものは痛い、そこに我々の現実があるわけです。
さて、いかにすれば、この繋縛された私たちを
寂滅たる、融通無碍たる、智恵円満たる悟りに導くことができるのでしょう?
浄土教家の方々は、得道の人(仏)の巧みなお手並みを、
念仏による往生浄土という教説に見いだされたのです。


34 :7:2007/10/09(火) 12:31:07 ID:vERZKabd
>>26さん 弥陀の本願を聞かれたのですか 今はただ凄いなぁとばかり思います。
 未信だからでしょうか 煩悩具足だからでしょうか 今は不安と迷いだらけですが 頑張りますね。
 ・・・とはいえあまり頑張っているという感じでは無くて ご縁を求めて彷徨っているようなものですが。

35 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 13:32:50 ID:8+0aZzDE
親鸞さん自身、800年前の科学がない時代の人だからね。今や、宇宙にロケット飛ばしてる時代ですよ? 極楽浄土など、時代錯誤の何物でもない。

36 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 15:53:14 ID:VUakfL0T
>85
科学が発達して、失ったものも数多いですね。いくらロケットを飛ばしても、
交通網が広がっても、生死を巡る苦しみが絶えないのはどういう訳でしょう?
果たして、800年前の人より、私たちは賢くなっているのでしょうか?
私は、逆に、叡智は見失われ、ますます個人が無力化される
体制になってきている気がします。ロケットを飛ばしても、
飛ばす人間が無力になっている所に問題を感じますが、いかがでしょうか?

37 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 15:55:02 ID:VUakfL0T
>36
アンカーミス、すみません。>35でした。

38 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 16:43:59 ID:8+0aZzDE
>>36 もっと科学を進めれば良い。クローン科学で人間が不死になった時、宗教の役目はすべて終了する。宗教はただの慰めであったと。

39 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 17:58:09 ID:vERZKabd
生・老・病・死、この全てを医学科学で解決できる日が来たら宗教などいらんかも知れんねぇ。
しかし、老化が防げるようになり、全ての病気も治療できるようになり、寿命も無限に延ばせるようになったとして、
思うようにならない人生という生の苦しみはどう解決するのかな?誰もが幸せになれる方法を、医学や科学は生み出せるのかな?
まぁ、無理やり薬や手術で脳内にドーパミンでも出させて多幸感を維持させるとかそういう力技はなしの方向で。

あと、寿命が無限に延ばせたところでいつか冷え切ってしまうこの宇宙で生命維持は難しいのでは。
それとも科学が進めば他の若い宇宙へ移行できる日が来るのかな。
いずれにしても、戦争一つ、隣人との喧嘩一つ解決できないこんな世の中じゃ、それは見果てぬ遠い夢のような。
今日明日死ぬかも知れない我が身というのが現実でしょ。
自分の人生に限って見つめていけば、自分の心の問題は科学の進歩をのんきに待ってはいられない。
今、何が出来るのか。今どう解決する道があるのか。求めずにおれないのも人生だと思うなぁ。

40 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 21:19:51 ID:Xr6L0yaH
ここ数日、回答させていただいているものです。

>30 数多ある人生哲学、理念、宗教、の中で、浄土真宗に巡り合えたことも不思議です。
>これこそ真実だと思うのは、無学で無思慮な自分の早とちりなのか、強縁によってそう思わさせていただいているのか?
>考えるほど何がなんだか分からなくなってきますが、道を求めていきますね。

うーん、かなり求道が進んでいるところにおられる感じがします・・・。
ぜひそのまま、繰り返し本願を聞いていっていただきたい、と思います。
30さん、かならず聞く耳いただけますよ。


41 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 21:20:24 ID:Xr6L0yaH
求道にかんして疑問のある方、おられますでしょうか?


42 :30:2007/10/09(火) 22:15:01 ID:vERZKabd
>>40 いつもご解答有難うございます。大変勇気付けられます。
 人生や死とは何か悩みぬいた高校時代、選んだのが仏教系の大学で、その学生時代に親鸞聖人のみ教えに出会ったまでは良かったのですが、
なんだかんだで某会とも疎遠になってかれこれ10年。もういい加減なんとかせねばと焦って古巣の様子を覗いてみましたが批判のための批判の繰り返し。
 嘘でもイイから「俺は獲信したぞー」ってな人はいないものかと絶望的な気分でした。
 まさか獲信について前向きに現実的にアドバイスしてくださる方が現れるとは、本当に不思議なご縁です。
 いよいよ、ネットだけじゃなくて、今週行ってきます。まずはいくつか書籍を求めてまいります。獲信者の方にもお会いできるかも知れません。
不安と期待が入り混じります。

最後にまた質問ですが、仏法を聞くときは「後生の一大事をこころにかけて」と言われますが、具体的にはどのような感じなのでしょうか。
後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ません。
また、聞法中の心得としてその他の気をつけるべき点はあるのでしょうか。ひたすら集中力を用いればいいのでしょうか。

43 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:07:38 ID:VUakfL0T
>38
それこそ、夢、おとぎ話ではないですか?極楽が有ると信念を持つのと
クローン技術で不死になるという予想も、あまり大差はないように思えますが。
生死の問題は、一般論や仮設では語れない、
今、私が死に直面している事実から出発します。
十年後、二十年後、私が生存しているという仮定は、
問題にならないと言うことです。
試しに、クローン技術で何万年の寿命を持ったとしても、
様々な苦痛が発生するでしょう。私たちに欲望がある限り。
源信和尚の『往生要集』に「天人五衰」という話があります。
膨大な寿命を有する天人は、死について考えることがなく、
楽しく何不自由なく生きていることが当然と疑わない。
ところが、いざ天人の寿命が尽きる時は、五つの衰弱相「五衰」が現われると言います。
頭の花が萎れ、生まれてから一度も汚れることのなかった衣服が汚れ、
体から死の臭いがするなどです。
一番の苦痛は、まわりの天人達が、この兆候が出始めた天人から
次第に遠ざかっていき、自らの万能の生活を壊さないために、
無かったことにするということでしょう。
死にゆく天人は、最後は誰ひとり共感する者も傍にはなく、
生まれてはじめて経験する孤独と万能感が崩壊していく苦痛の中、
命尽きていくということです。おとぎ話と言えば、それまでですが、
自分達の知恵・技術が万能と錯覚した現代人にも
何か共通するところはないでしょうか?
さて、私はどうか?ということです。
機会が有れば、仏教典籍など開いてみてもいいのではないでしょうか。

44 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:21:42 ID:VUakfL0T
>42横レス失礼します
いってらっしゃい。私は信一念体験説は採ることができませんが
(加茂和上という方の門下であったため)、
私も確固とした信心を求めていたので、大丈夫。
「もし菩薩、種々の行を修行するのを見て、善・不善の心を
起こすことありとも、菩薩(私は法蔵菩薩と読む)みな摂取せん。」
『教行信証』の結びです。
自由に大らかに仏法を聞き開いていけばよい。阿弥陀如来は、
みんなご存じです。有り難いやら、恥ずかしいやら。
南無阿弥陀仏


45 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:26:30 ID:Xr6L0yaH
ご質問ありがとうございます。つたない文章ではありますが、答えさせていただきます。

>仏法を聞くときは「後生の一大事をこころにかけて」と言われますが、具体的にはどのような感じなのでしょうか。

後生の一大事をこころにかける。
これは、わたしが死んだら、死後(後生)に一大事(地獄に落ちるという大変なこと)があるのだ、と、後生の一大事を自分の問題としてとらえる、ということです。
この後生の一大事を自分の問題だ、と思う人は、地獄に落ちるのが不安なので真剣な求道を開始します。
そして、後生が全然こころにかからない自分を発見していくことになります。
そういう意味で、30さんは後生をこころにかけた聴聞をなされていると思います。
そのまま、そのまま繰り返し本願を聞いていってほしいと思います。

>>後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ません。

「後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ない」
ような人の後生を救うよ、というのが阿弥陀仏の本願です。

>また、聞法中の心得としてその他の気をつけるべき点はあるのでしょうか。ひたすら集中力を用いればいいのでしょうか。

集中力がないとダメ、というのはありません。リラックスしててもいいです。やる気なくてもいいです。本願を聞きたくないままでもいいです。
とにかく、くりかえし阿弥陀仏の本願を聞く。くりかえし聞く。聞きたくなくても聞く。
そして、本願を聴聞すると、おのずといろんな思いが出てきます。
「分からない」「後生が救われたという実感がない」「後生がこころにかからない」
「無常をとりつめられない」etc・・・という思いが出てくるようなものの後生を救うよ、という阿弥陀仏の本願を、再び聞く。
このくりかえしです。

聞いて聞いて聞いて聞いていくと、『「上に書いたような自分の思い(分からない、など)」にたいする執着』を離れて、聞即信できるときが来ます。
その時は、くりかえし本願を聞けばかならず来ます。
しかし、獲信体験までで止まってしまう人も多いです。
なので、聞く耳をいただいたら、ぜひ信後の聴聞もやってくださいね。

46 :30:2007/10/09(火) 23:48:15 ID:vERZKabd
レス有難うございます。
信後の聴聞をさせていただける日こそ楽しみです。そんな今の気持はまだ求道のしんどさも感じていない自分の宿善の薄さの表れかもしれませんが。
繰り返し、繰り返し、阿弥陀仏の本願を聞くことですね。アドバイス有難うございます。ひたすら聞いてみます。

47 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:55:36 ID:VUakfL0T
折角の妙好人スレですから、寝る前にひとつご紹介しましょう。
あるお同行と三河のおそのさんの問答。
お同行「あなたは真宗をどのように領解しておりますか?」
おその「(浄土へ)やってもらいますのー」
お同行「それではタノムが抜けている、それは南無がない四字安心と言うものだ。
もっとしっかり聴聞しないと、地獄に落ちることになりますぞ」
おその「ありがとうございます。うれしゅうございます」
お同行「あなたは地獄に落ちるのがうれしいのか?」
おその「落ちればこそ、(浄土へ)やってもらいますわいのー」
お同行「それでは、阿弥陀如来のご恩を尊めますか?
お慈悲ありがたいという日々を送れますか?」
おその「ご恩やお慈悲はなんともない、
毎日、火事の炎燃え盛る真っ最中にいるようなものだのー」         お同行「それでは、信心頂けたのか、疑い晴れたのか、
弥陀をタノミ奉ったとは言えないではないか!」  おその「私は、阿弥陀如来の必ず参らせてやるの仰せのほかには、
後にも先にも何も存じません。」
タノムは、まさに姿(相)であって、自覚意識ではないということです。
仏の「あなたを苦痛の世界、迷いの世界に留めておくことは、
何が何でも出来ないぞ、故に必ず浄土へ連れて参る。
何故なら、お前は私の一人子だから。人間の親とは違う、
仏の真実心の親心ゆえ、救わずにはおられんのだ。」
この仰せ・命令だけだったということです。
それを受けた姿(相)が信心なのであって、
私の中に確固たるものが出来上がったものは、所詮、凡夫の築いた自力信。
すなわち、ガラクタと言うわけです。
我となえ、我聞くなれど、
南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよび声


48 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:08:45 ID:HOSJVhbo
あまりにくだらない。800年前の迷信を現代に適応させようなど、時代錯誤も甚だしい。ちなみに私は親鸞会に出入りしたいたことのある人間です。聞いて、聞いて、聞いて、聞いて、得られるものは洗脳しかない。

49 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:12:58 ID:HOSJVhbo
何が後生一大事か? 人間が死ぬのは生物学的に見て自然なことです。死にたくない、だから、宗教は死後の世界を勝手に作った。当然、そんなものは創造の産物でしかない。

50 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:16:33 ID:HOSJVhbo
クローン科学による永遠の命が出来た時、宗教は役割を終える。また、仏教でいう悟りも脳科学で完全に解明されることになる。その方が私は分かり易く、面白いと考える。今時、極楽浄土なんていっても幼稚園児でさえ信じないよ。

51 :暇人:2007/10/10(水) 07:18:27 ID:QXGhIVQK
カルトの親鸞会と 念仏を混同するなんて

くそと 味噌を いっしょにするようなものだ

52 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 08:25:38 ID:HOSJVhbo
>>51 どっちも一緒だよ。800年前の迷信。

53 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 09:21:37 ID:C7Shl8Jo
>>51
このスレは親鸞会とは無関係。

54 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 09:40:17 ID:g07rLagz
>52
価値観の問題なので、あなたはそれでいいのではないかと思いますが、
ちなみに、私は後生の一大事を死後大変なことがある
こととは考えたこともありませんでした。
しかしながら、自他分別をし続け、各自の欲望と欲望との対立が止むことがないならば、
争いとそれが生み出す苦しみも、止むことがないと思いました。
その繰り返しを、私たちはいつまで続けていくのでしょうか。
クローン技術ができたところで、我々の自己中心的欲求をもって、
それを用いれば、苦しみの果を生み出す新たな装置が発明された
という結果に終わることも大いにありうると言うことです。
私は、そのクローン技術とやらの恩恵を受けられそうですかね?
あと何年で不死の人間とやらはできるんでしょうかね。
有りもしないものに希望を抱き、その完成を信じながら死んでいくなど、
私にはできそうもありませんが。

55 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:07:23 ID:HOSJVhbo
>>54 ありもしないものとは極楽浄土の方ですよ。当然、阿弥陀仏も存在しません。それと、あなたも私も生きているうちに不死の恩恵を受けるのは無理です。だから、いいんじゃないですか、自分は極楽浄土に行くと思いながら、死んでいって。

56 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:17:27 ID:SBTGVERW
 
質問です
 
親鸞会スレではsageてばかりだったのに自分のスレ建った途端age進行するのは何でですか?
 

57 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:36:55 ID:g07rLagz
>55
死を恐怖するものと考え、極楽を仮設するのも、クローン技術を仮設するのも、
本質は同じと言うことですね。死を恐怖することがなくなれば、
生への執着を離れれば、極楽もクローン技術も、もはや無用の長物。
私たちにとって何ら必要ないものと化すと言うことです。
でも、私は浄土に参らせていただくそうです。何故なら、
私の願いではなく、戯論の寂滅した仏が願ったことだからです。
浄土が有るのか無いのか、そんなことわしゃしらん、仏に聞いてくれ、
と言うことです。

58 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 11:07:04 ID:JCzeJjgU
>>57

生への執着は親鸞さんでも捨てられなかったのでは? 仏を持ち出すことを
思考停止という。悟りを脳科学で解明できる日が楽しみです。目指すものが
明確になる。

59 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 12:22:15 ID:HOSJVhbo
神秘体験、宗教体験も脳科学で解明できるようになる。親鸞さんに起こった脳内現象ですね。宗教は文化として触れるだけのものになる。それも致仕方ないことでしょう。

60 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 14:42:00 ID:g07rLagz
>59
研究して成果を出せたらそれは素晴らしいことですね。頑張って研究して下さい。応援しています。


61 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 15:32:12 ID:HOSJVhbo
>>60 信心決定するのは恐ろしいほど簡単です。仕事以外の時間を、すべて親鸞の読み物に捧げればいい。そうすれば、脳内に親鸞しかいなくなる。

62 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 17:13:55 ID:g07rLagz
>61
仮説や推測なら、いくらだって立てられますから、
実際に実験してみるといいですね。
方法論的には易しいようですし。
脳内を親鸞の教説で満たしたら、信心決定ということが
成り立ちうることを確認すればよいでしょう。
ただし、脳内を親鸞の教説で満たすと言う条件自体、
何を基準とするのか?その基準・立脚点が間違いないと何故言えるか?
前提条件の正当性を一つ一つ、築きあげていくことだけでも、
非常に困難な作業と言わねばならないでしょう。
個人的には、様々な人々とかかわり合いながら、苦を乗り越え、
生き死んでいくそうした営みにとって、こうした箱庭の中の談義は
さして重要事のようには思えませんが。
もう一点、あなたが親鸞会で学んだことが本当に仏教なのかどうか、
再確認していただきたいと言うことです。少なくとも私の学んでいる仏教は
仮説なき実際の事を相手にしています。過去でも未来でもない
現今の私が対象なのです。
故に、三世十方を貫く真理だから信ずる、というような
仮説された概念に対しての信念を基準とするものではありません。
神経細胞が作り上げたものである私と言うのも、また概念規定に他ならない
と言うことです。概念規定の前に、私は現在しているのですから。
そう言った意味においては、あなたの思考法は、親鸞会のそれと
本質的には大差なく、未だ束縛されている感がありますが、
如何でしょうか?

63 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:28:27 ID:mGry1KBB
ここは妙好人と呼ばれる方々がたくさんいるスレですね

64 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:31:39 ID:HOSJVhbo
だって、聴聞を繰り返せということが脳内に極楽浄土を作るということでしょうが。(キリスト教徒が毎回の日曜日に聖書の話を教会に聞きに行くのと同じ。)

65 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:41:53 ID:HOSJVhbo
私の学んでいる仏教は仮説ではないとおっしゃるなら、極楽浄土や阿弥陀仏の存在をあなたが証明できなければならないでしょうが。親鸞さんは、あの時代だったからこそ、宗教として確立できたのであって、現代人には適応しないと私は考えます。

66 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 21:27:09 ID:DF9r209O
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

求道にかんして質問のある方おられますでしょうか?

67 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:07:08 ID:g07rLagz
>64
聴聞とは、名号のいわれを聞かせていただくこと、
広義で言えば、それを勧めて下さる方のお話を聞くことです。
つづめれば、五逆十悪の罪人も必ず救うと聞かせていただくことに極まります。
繰り返し聞き、洗脳されることでも、
頭の中に概念を構築していくことではありません。
「必ず救う」、ただこの事を今聞かせていただくだけです。
聴聞を繰り返しせよ、と言うのは、信心を獲るためではありません。
もし、聴聞を繰り返したことによって、信心決定・浄土往生が定まったとするならば、
自分の聴聞の功を認めることとなり、自力信と言わねばなりません。
必ず浄土へ参らせるに疑いがないという
如来の真実心を聞かせていただくのです。
こちらの意を運んで向かっていくのではなく、如来の真実心が私に間違いなく、
疑いなく向かっている事を聞かせていただくのです。
握った信心は必ず変わっていきます。私の心が絶えず変化し続けているからです。
如来の「必ずタスケル」の心だけが変わらないのです。
故に、聞くことが即ち信心だと言うのです。聞いてわかったが、信心ではないのです。
>65
私は現代人ですが、仏さまがいつも、お前が必要だ、大事だ、
故に必ずたすけるぞ、と仰って下さるのを聞きながら、
おかげさまで生活させていただいております。毎日、煩悩に焼かれる
生活ではありますが、決して捨てないと聞かせていただきます。
取るも取らぬも、みなさま方のおはからいでしょう。
私にとっては、時代錯誤ではなく、今ただ今です。

68 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:21:32 ID:Gyksn47R
以前ある団体で親鸞聖人の話を聞いていましたが、
その団体を離れ、現在は仏教とは無縁の生活を送っています。
今の所は、仏教を聞く気にはなりません。

ただ死後に地獄へ落ちてしまうのではないかという不安があります。
今後、仏教とは無縁の生活を送ろうとしている私は、
死んだら地獄に落ちてしまうのでしょうか?

69 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:32:18 ID:DF9r209O
>ただ死後に地獄へ落ちてしまうのではないかという不安があります。

これは「後生不安なこころ」とも「宿善のある人」ともいわれます。なんせ、凡夫が後生を気にかけているのですから。

>今後、仏教とは無縁の生活を送ろうとしている私は、
>死んだら地獄に落ちてしまうのでしょうか?

うーん、すみませんが、あなたの死後はわたしには全然断言できません。
わたしは自分の死後さえ、断言できない。
ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。そして、その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。
わたしの死後を断言している阿弥陀仏のおっしゃっていることを「聞いた」わけです。

また、68さんは「今の所は、仏教を聞く気にはなりません」とおっしゃってますが、この掲示板にこのような質問をなされていること自体、
一種の聴聞になっていると思います。宿善のあるなしで言えば「大アリ」の人です。
質疑応答のない、聞きっぱなしの法座に行くよりも、こちらの方がはるかに求道はすすんでいると思いますよ。

70 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:51:39 ID:DF9r209O
68さんののぞむ答えとはちがったかもしれませんが・・・、これを回答とさせていただきます。
68さんはほかに質問はございますでしょうか?

また、他の方で求道にかんする質問のある方、おられますでしょうか?

71 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 23:50:51 ID:Gyksn47R
先ほど質問した68です。

>うーん、すみませんが、あなたの死後はわたしには全然断言できません。

たとえ獲信しても、人の後世については判らないということですね。
親鸞聖人と同じ信心ならば、聖人も人の後世については判らなかった
ともとれますけれども、少し混乱しています。

>ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。
>そして、その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。
>わたしの死後を断言している阿弥陀仏のおっしゃっていることを「聞いた」わけです。

この時点で「後世への不安がなくなった」ととれますが、

>わたしは自分の死後さえ、断言できない。

の部分に、頭をかかえこんでしまいます。

でも、70さんのような方にお遭い出来て本当に良かったです。

72 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:12:05 ID:0Lvau7EM
>>67
>故に、聞くことが即ち信心だと言うのです。

 聞きに来なくなったら、信心はなくなったということでしょうか

73 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:25:31 ID:0Lvau7EM
>69
>これは「後生不安なこころ」とも「宿善のある人」ともいわれます。

 宿善のある人?。気に病んで不安になっているだけだと思いますけどね。
 不安を抱えて生きていく方は苦しいと思いますよ。

>ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。

 そのようなことを、だれが言ったんですか?
 聞き違いではありませんか?

>その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。

 そのようなことを、誰が言ったんですか?
 聞き違いではありませんか?

 地獄におちるのか、落ちないのか。貴方の自身の結論はどうなりましたか?。


74 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:36:17 ID:73mgSBO8
>72
何処に聞きに出かけるのですか?「今現在説法」の阿弥陀さまが、
十方にその声届かねば、仏に成らぬと誓われているのに。
今、ここで聞けばいいではないですか。
兆載永劫の修行も、五劫の思案も、全部、悪業煩悩作りと作る私のため。
全部背負っても後悔しないと誓った仏が
「我が身に代えてもお前を奈落の底にはおとさない」
と、ここにも響き渡る大説法をされておるのに、
いまさら何処に行くつもりですか?
何処にいようが、掴んで離さない仏を、何処か他の場所にいるように
思わなくてもいいのではないですか?今、このボロアパートが、
聴聞会場真っ盛りじゃないですか。無量寿無量光、光の届かないところはないのだから。
南無阿弥陀仏

75 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:54:58 ID:SjKnrXuz
>>わたしは自分の死後さえ、断言できない。
>の部分に、頭をかかえこんでしまいます。

ああ、うーん、そりゃそうですよね。頭かかえこみますよね。
ここはいわゆる二種深信の部分であり、まあいっけん矛盾して見えるところです。

でもね。68さんだって、自分の死後も、他人の死後も、どうなるか分からないでしょ?
そりゃわたしも一緒です。まったく一緒。死後なんてどうなってるか、分からん。

そして、自分や他人の死後が分からないのが凡夫、その凡夫の死後が分かるのが阿弥陀仏。
その阿弥陀仏が、「あなたは毎日地獄におちる罪を作っているよ、でもそういうあなたを必ず救うよ。そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ。」
という、阿弥陀仏の本願を、「聞く」わけです。
だから、安心する、うれしくなる、申し訳なくなる。

やっぱり、死後への不安をかかえる人には、ぜひこの「本願を聞く耳」をいただいてほしい、と強く思います。
すんごく楽になるし。


76 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 01:09:42 ID:SjKnrXuz
68さん、中途半端な回答になってしまったかもしれませんが・・・すみません。

眠くなってきたので、そろそろ寝ようと思います。
これ以降にご質問くださった方には、また、昼か夜にお答えさせていただこうと思います。

77 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 07:33:41 ID:+rM2G57T
>>67 すごいですね、あなたは仏様の声が聞こえるんですね。いくら理屈をつけても駄目ですよ。聴聞は洗脳の手法でしかないの。毎・日曜日に教会に通うことも同じ。

78 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 07:39:05 ID:+rM2G57T
>>68 地獄なんてありません。人間は死ねば、骨になるだけ。骨になれば、自分が誰であったのかさえも分からない。極楽浄土も地獄もないのだから、行きようがない。ただ、意識のない骨になるだけ。

79 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:21:44 ID:0Lvau7EM
>72
>何処に聞きに出かけるのですか?
    はて?どこかに聞きに行くという話ではなかったのでしょうか?

>「今現在説法」の阿弥陀さまが、十方にその声届かねば、仏に成らぬと誓われているのに。
    はて?。どこのお伽噺の話でしょうか?。

>今、ここで聞けばいいではないですか。
     今、ここ?。はて?。どこ?。見ても見えず。呼べど応えず、聞いても聞こえず。

>兆載永劫の修行も、五劫の思案も、全部、悪業煩悩作りと作る私のため。全部背負っても後悔
しないと誓った仏が

 どこのお伽噺話でしょうか?。お伽噺は子供に聞かせるもの。大人相手じゃ無理でしょう。

>「我が身に代えてもお前を奈落の底にはおとさない」と、

 はて?。どこのお伽噺でしょうか?
 桃太郎は、この世の鬼を退治しないではおくものかと、確か、大変固く誓ったと聞きましたが、
それがどうかしましたか?

80 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:23:03 ID:0Lvau7EM
>ここにも響き渡る大説法をされておるのに、
 ここにも響き渡る?。はてどこに響き渡っている?。
 ジェット機の騒音でも聞こえましたか?

>いまさら何処に行くつもりですか?
   それを私が聞いている。

>何処にいようが、掴んで離さない仏を、
 どこかの電柱に突き刺さっていた釘に襟首が引っ掛かって歩けなくなった?

>何処か他の場所にいるように思わなくてもいいのではないですか?
   夢でも見ているんじゃないでしょうか?。

>今、このボロアパートが、聴聞会場真っ盛りじゃないですか。

 どこぞのボロアパートに聞きにいらっしゃいとお誘いなさっているのでしょうか。
 「ここ」とは、どこのボロアパートの話ですか?

>無量寿無量光、光の届かないところはないのだから。南無阿弥陀仏

 はて?。夢でも見ているのではございませんか?
 お目を覚ましたらいかがでしょうか。

81 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:40:44 ID:0Lvau7EM
>>75
>二種深信の部分
 にしゅじんしん?。単なる勘違いではないのでしょうか?

>いっけん矛盾して見えるところ
 二見しても三見しても矛盾しているように見えますけど。気のせいでしょうか?。

>死後なんてどうなってるか、分からん。
  仏教を聞いて、貴方にはそれが分かったというお話をしているのではなかったのでしょうか。
  それとも、やっぱり皆目分からないということなのでしょうか

>その凡夫の死後が分かるのが阿弥陀仏。
  阿弥陀様とやらに聞いて、どのようにわかったのでしょうか?
  分かった結論はどうなりましたか。地獄に堕ちるのか。落ちないのか。

>阿弥陀仏が、「あなたは毎日地獄におちる罪を作っているよ、 〜 という

 はて?。どこのお伽噺話でしょうか?
 誰が、どこで、どのような罪をつくっていのでしょうか?。
 こういうのは、詐欺師、阿弥陀様の脅迫、言いがかりとでも言うのではないでしょうか。

 そう言えば、「悪いことすると桃太郎が懲らしめにくるよ」。確か、桃太郎もそんなことを言っていた
ような、いなかったような。

82 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:45:50 ID:0Lvau7EM
>そういうあなたを必ず救うよ。
    脅迫したりすかしたり、あの手この手で不安にしたり、安心させたり
    口先三寸。世の中に、口程便利な道具はない。
    あなたはどこのお伽噺をなさっているんですか?

>そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ。

 このうえは、念仏をとりて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなりと云々
 あなたの宗教では、どこぞから詐欺師のトリック電磁波でも飛んでくるのでしょうかね。

>という、阿弥陀仏の本願を、「聞く」わけです。
    聞いて何かが変わるのでしょうか?
    桃太郎が鬼退治するぞという本願話を聞いても、何も変わりませんでしたよ。

>安心する、うれしくなる、申し訳なくなる。
    はて?。躁病?

>ぜひこの「本願を聞く耳」をいただいてほしい、と強く思います。
  はて?本願を聞く耳と本願を聞かない耳とがあるのでしょうか?
  本願を聞く耳と本願を聞かない耳とは、何処が違うのでしょうか?

>すんごく楽になる
   気の迷いではありませんか?

83 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 09:51:50 ID:ZomblQV0
>>79-82
あーあ、とうとう来ちゃったよ。
もうこのスレ終わったな。

84 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 10:31:30 ID:5q9rvCDs
終了


85 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:11:43 ID:MACuNIMa
渡海の隔離スレはまだあんの?
潰れたんでアラシに戻ったのかな?

86 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:28:57 ID:afVDQdkf
 
あとは松屋で夜勤明けの池のザリガニくんが来ればパーフェクトだな
 

87 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:39:24 ID:73mgSBO8
>77
別段、なんたることもないです。聞其名号の説示の通りですから。
必ず浄土へ参らせる、という勅命を蒙るだけのことであります。
浄土があるのか地獄があるのか、何もなくなってしまうのか、
いくら議論を尽くしても、自分が死んでみなければ、
実際わからないから、意味がありません。
今、阿弥陀如来の本願に依ると、必ず参らせるとの誓いであった、
ということだけの話なのです。あとは取るも取らないも、各自の自由です。
どうと言うほどのことでもないですね。
洗脳と言えば、私たちは生まれてこのかた、常に洗脳されています。
父母の意向、先生の意向、様々な出来事、新聞、テレビ、雑誌、
書籍、ゲーム、洗脳されていない日など
なかったのかもしれないと言うことです。
あなたの死んだら骨になって、意識も何もなくなってしまう
というご意見は、洗脳の結果でないと果たして言えるでしょうか?
本当のところは、実際死なねばわからないわけですから。
私たちは、皆、完全に公平であり、超絶した観点からものを観察することは
できません。それぞれの経験によっての判断であり、
それも他の影響を受けて、刻一刻と変化し続けます。
洗脳されている私が判断基準になりうるのか?ということです。

88 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:43:27 ID:dTl6SLVZ
あーあ。信心談合、止まっちゃった。勉強になってたのに。

89 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:51:38 ID:+rM2G57T
>>87 その通りだと思います。でも、なぜ、今頃になって親鸞なんでしょうかなぁ? 浄土真宗の方が怠慢してたのか。。。

90 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:58:25 ID:+rM2G57T
科学が進歩して、不死が実現しても、宗教に走る人はなくなりません。アマゾンの原始人に、今更、東京で生活してみろといっても、それは無理な話です。

91 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 13:00:46 ID:+rM2G57T
あと、不死になれないなら、せめて宗教で救われようという考え方も分かる。不死になるには資格がいります。ノーベル賞受賞者とかね。凡人みんなが不死になったら、地球が壊れてしまうでしょ?

92 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 13:05:03 ID:+rM2G57T
親鸞の時代には月にはうさぎが餅をついているといっていました。だから、阿弥陀仏なんて言い出しても仕方がない。仏とは海王星の遥か向こうにいるのだといいますか?、あなた。(笑)

93 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:16:04 ID:+YZwREHF
親鸞会の人も紛れ込んでるな

94 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:28:12 ID:4qprz6hO
.>>90-92

「アマゾンの原始人に文明生活は無理」とか「優れた人物だけが不死の資格がある」とか、

釣りにしてもあまり聞いてていい気持ちはしません。





95 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:53:42 ID:+rM2G57T
>>94 私も最初はそうでした。しかし、よくよく考えてみると犯罪は不幸な人が起こすのです。しあわせな人は罪を犯す必要がない。不死の資格を得る人はしあわせな人だけに限ります。



96 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:58:42 ID:+rM2G57T
お釈迦様は極楽浄土へ行く資格を得て、その後も教えを説き続けた。もし、人生の目的が浄土行きの切符を獲得することのみならば、釈迦のその後の教えは必要ないことになる。親鸞仏教は未完成ですね。

97 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:13:54 ID:0Lvau7EM
>>87
>必ず浄土へ参らせる、という勅命を蒙るだけのことであります。

 お伽噺を蒙るだけなら、正直に、私はお伽噺を蒙るだけと言えばいいんじゃないですか?もっ
とも、「蒙る」という言葉は意味がよく分からん。妄信しているだけですよと言うことなんでし
ょう。多分。

>自分が死んでみなければ、実際わからないから、意味がありません。

 結局そうなんでしょう。それなら最初からそう言えばいいんじゃないですか?
 私は何も分かりません。それだけ言えば、他の人は期待を持つことがない。死ななきゃわから
んことを死んでもないのに、あたかも分かっているかのように、無邪気な人に期待を持たせるの
は、罪なことではござんせんか?。

>今、阿弥陀如来の本願に依ると、必ず参らせるとの誓いであった、ということだけの話なのです。

 習い覚えたお伽噺のあらすじを話したくなったんでしょうか。
 桃太郎さんは、おじいさんとおばあさんとに対し、必ず鬼を退治してくるという誓いであった
と聞いております。大人に聞かせる話じゃないでしょう。

98 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:16:21 ID:0Lvau7EM
>あとは取るも取らないも、各自の自由です。

 「そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ」という話は、立ち消えで
すか?。みせると言った意気込みが、張り子の虎の「から元気」だったでしょう。
 もともと根も葉もないお伽噺は、最初から「根も葉もないお伽噺です」と断ってから話をした
らどうですか?。そうすれば大人は最初から席を外すし、子供会には喜んで貰えることでしょう。

>洗脳と言えば、私たちは生まれてこのかた、常に洗脳されています。

 根も葉もない馬鹿話、お伽噺に洗脳され、自分はマインドコントロールされていると思ってい
るなら、それを最初に言いなさいな。自分の心理状態、精神状態が異常であるというなら、聞こ
うとする相手にとってはとても大事なことだ。
 お伽噺で洗脳され、マインドコントロールされている人間なんですよと、最初に説明すれば、
相手は最初から貴方のことを用心してくれるでしょう

>本当のところは、実際死なねばわからないわけですから。

 自分には何も分からないというなら、最初からそう言ったらどうですか?
そうすれば、誰も貴方に期待を寄せることはない。

>洗脳の結果でないと果たして言えるでしょうか?

  洗脳の結果ではない話があるなら、それを話したらどうですか。
  死ななければ自分には何も分からないというなら、自分はまだ生きていますから自分には何
も分かりませんと言えば済む。人はその後の話を聞かんだろう。
 要するに、自分には何も分かりませんと、一言言えばそれで済む。高森顕徹さんの馬鹿話を一
日も早く忘れることが、洗脳を解く第一歩ではありませんか。

99 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:21:41 ID:0Lvau7EM
>96
>お釈迦様は極楽浄土へ行く資格を得て、その後も教えを説き続けた。

 どこかのお寺付属幼稚園でおそわった「絵本おしゃかさま」か何か
の中の一こまですか?。

 幼稚園で教わった「おしゃかさまのおはなし」は卒業し、より客観
的な大人の釈迦像を学ぶといいでしょう。 

100 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 20:44:26 ID:+OzhLvQH
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

101 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 21:16:44 ID:enb8ynHn
渡海アンチの方には申し訳ないですが>>79から現時点までに限っては
渡海の意見の方が納得いきました
自分は洗脳されていると自覚があるのなら、自分の信仰心を語る時
それを予め相手に伝え用心させるのが責任ある態度だと思いました

> 要するに、自分には何も分かりませんと、一言言えばそれで済む。
これもよく的を射ていると思います

でも、それじゃ物足りないからイヤなんだろな
ひとって・・・


そんな感じで皆さんのお話を微笑ましく読ませてもらっています


102 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 21:56:33 ID:SjKnrXuz
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?


103 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:14:47 ID:k02Pd0mA
>>102
妙好人初心者です
求道の定義すらわかりません
前スレを教えてください

104 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:21:09 ID:SjKnrXuz
前スレは【コピー本尊】本尊を貸します 親鸞会【レンタル】

です。

105 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:24:23 ID:J8MNs1T7
ここは親鸞会のスレではありません。
親鸞会のスレを前スレにするのは迷惑です。

106 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:42:59 ID:SjKnrXuz
あ、そうか・・・。すみません。
まあ、悩みやご質問があれば、初歩的なものもOKなので、新たにここで質問していただく、ということで・・・。
既出の質問でもいいですし。

107 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:43:54 ID:+rM2G57T
>>105 親鸞会との違いは?

108 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:46:57 ID:+rM2G57T
日蓮は真言亡国、念仏地獄といってるんだけど、どう思います? また、涅槃経で説かれている常楽我浄と極楽浄土の違いについて教えてください。

109 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:52:01 ID:SjKnrXuz
どなたかご自分の求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?


110 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 01:40:37 ID:Exb7xU6c
うーん、眠い・・・、すみませんが、もう寝ます。
おやすみなさい。

111 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 09:37:06 ID:j3mP2k5/
「信心について語りあう」ことに関しては、実質機能停止状態。
しばらくはだめかもね。
人の出入りが少なくなった分、同時に荒らしへの抗体となってくれていた
住人もいなくなってしまったのも一因か。
やはり2chで信心決定なんて無理だったのかな。


112 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 10:23:59 ID:lzewFJoZ
>111
 荒らしのこないこちらに移動して下さい。 ↓
                    http://tamahi.parfe.jp/


113 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 12:59:49 ID:6xvrPCwk
おつかれさまです。
>101
一連の書き込みをした者の一人です。
洗脳されている人の自覚とはどのようなものなのでしょう。
その自覚自体、また洗脳された自覚だとしたら、泥を洗うのに泥水をもって
洗うのと同じことで、汚れが無くなることはないと言うことです。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲する、
これ必ず不可なり。
親鸞聖人は何を真実だと言われているのでしょうか?
妙好人と呼ばれた方々の言動の根底には何があったのでしょうか?


114 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 13:23:05 ID:pweg8hd0
>>113

>>101は渡海難の自演ですよ。

115 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 14:54:47 ID:u/gv6hei
>>113
お返事ありがとうございます
私も意見交換をしたいのですが、他の方の書込みと区別できるように
名前の欄に固定のハンドルネームを入れていただけませんか?
ご了解いただければ、お話をさせてもらいたいです


>>114
あなたにとっては残念かもしれませんが、私は渡海とは違いますw


116 :101:2007/10/12(金) 14:56:16 ID:u/gv6hei
>>115
すみません
私もこれ以降は固定「101」で書き込みます
ご検討くださいませ
よろしくお願いします


117 :774:2007/10/12(金) 18:58:25 ID:6xvrPCwk
>116
了解いたしました。774と名乗りますので、今後ともよろしくお願いします。


118 :774:2007/10/12(金) 19:10:10 ID:6xvrPCwk
>116
了解いたしました。774と名乗りますので、今後ともよろしくお願いします。


119 ::2007/10/12(金) 20:12:22 ID:NF09HID6
なんか一気に伸びてますね。まだ読んでないですけど、ご報告申し上げます。

無事、獲信者の方とお会いすることが出来ました。いくつか書籍も求めてきました。
短い時間でしたが、なんだか嬉しいような懐かしいような。正直、感激してます。

今は、ハッキリと、一味の世界を知りたいばかりですね。

120 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 20:20:13 ID:fjlXn0fz
可哀相に さんざ親鸞会に金搾られたあげく独り親鸞会?
極楽? 阿弥陀? そんなもんあるわけないだろうが!


121 :101:2007/10/12(金) 22:06:25 ID:u/gv6hei
>>117
774さんハンドルネームの件、快く受け入れていただき
ありがとうございます
113の件について話を始めたいのですが、774さんのお考えというか
立場を知りたいので、過去の書込み番号を教えて頂けませんか?
範囲は、このスレと>>104のスレ内でお願いしたいのですが
よろしいですか?
不都合があれば、教えて下さらなくても結構ですが
その場合、774さんの過去の書込みと重複することを改めて
書き込んで頂くことになるかもしれません
ちなみに、私は101が初書き込みです


122 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 22:46:41 ID:Exb7xU6c
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

>無事、獲信者の方とお会いすることが出来ました。いくつか書籍も求めてきました。
>短い時間でしたが、なんだか嬉しいような懐かしいような。正直、感激してます。
>今は、ハッキリと、一味の世界を知りたいばかりですね。

ああ、いい感じですね。
ぜひ信頼できる獲信者のもと、聴聞していかれると早いと思います。
(ちなみにわたしは、なぜか偉そうな態度の獲信者と相性が悪かったです。
 相手が偉そうにしてると、「わたしもああいうスゴイ人にならないといけないんだ」と力むからかもしれません。
 逆に、「あんたは未信者らしいけど、おれもあんたと同じ腹底持ってるんだよ」といってくれる獲信者につくと、力む必要がなかったです)


はい、求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?

123 :774:2007/10/12(金) 23:43:29 ID:6xvrPCwk
>121
当スレでは、>6、>27、>29、>33、>36、>43、>44、>47、>57、
>59、>61、>67、>74、>87、>113が、概ね見たところ、私の書き込みです。
前のスレは、抽出するのが大変ですので、省かせていただいても、
よろしいでしょうか?


124 :101:2007/10/13(土) 00:00:55 ID:xZrXpdcx
>>123
774さん、お手数かけました
ありがとうございます
定期的に書込まれている方なんですね

ひとまず該当レスを再読します


125 :774:2007/10/13(土) 00:09:59 ID:WJ2E8X5y
>122
求道に関してではないですが、一つ質問があります。
獲信者とおっしゃいますが、「あの人は獲信者である」と、
判断する基準は何ですか?渡海さんという方がおっしゃる通り、
口先三寸で、なんとでも言うことができる私たちと聞きますし、
判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。
私たちの意業によって認識された獲信者ならば、
不確かなものと言わねばなりません。
実際、私は加茂仰順という和上のご縁によって今、
こうしてご本願を聞かせていただいておりますが、
加茂和上が、獲信者なのかどうか、私には判別できませんし、
判別できる立場にさえないと思っております。
ただ、今の私を真宗に導いて下さった方、
すなわち、一心一向に弥陀に帰命たてまつるべしと勧めて
下さった方でありますから、私にとっては善知識様であることは無論です。
しかしながら、獲信者と規定することはできません。
そもそも、獲信者なる言葉を親鸞聖人はじめ、列祖の方々が
用いられておられるのでしょうか?少し賦に落ちない気がしまして、
質問させていただきました。

126 :101:2007/10/13(土) 00:30:06 ID:xZrXpdcx
774さん
該当レスを一通り再読しました
私が、774さんの書込みに対する渡海の反論に賛同した>>101
774さんが>>113で私にレスを下さったという経緯が分かりました
私が割って入っていちゃもんつけてしまったんですね
すみません

真宗の信心者という立場では、私は774さんとそれほど食い違いがない
のではないかと以前から思っていました
また、加茂和上の評判を聞き、お話も聴きにお寺へ伺おうと思っていた
時期もあったのであなたとお話したい衝動も胸に抱えていました

また>>125の書込みも同様に疑問を抱いている立場です
お二人の話合いで私にも理解できる結論を導き出して頂きたい
と期待しています


127 :774:2007/10/13(土) 00:30:57 ID:WJ2E8X5y
>124
ご意見ご指導よろしくお願いいたします。
仏教を学んでいて楽しいことの一つは、
悉く既成概念を破壊されていくことでした。
理解していないのに理解したふりをすること、また名利心や、高慢心が
焙り出されても(私の煩悩では嫌だけれども)、
それが新たな欠陥の発見(即ち、また学べるという喜び)に
繋がってくる。自分が受けいれられる喜び
(煩悩の所作として当たり前な喜び)だけでなく、
全否定されることによって、未だ不完全たる我が身を知り、
だからこそ学んで行こうという喜び。
煩悩というのは、観察すると非常に面白いものです。


128 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/13(土) 00:49:02 ID:RYIWPQM3
>>125
 実にいい質問と思います。
 問いは101さんに向かっているようなので、僕の考えは保留します。将来、「質問箱」でコ
メントさせて貰うかも知れません。101さんが、このスレでコメントを寄せればそれに横やり
を入れるかも知れません。
 これについて、当方の胸中には言うべきことがあると考えます。

 一つ誤解だけは解いておきたい。
 「口先三寸で、なんとでも言うことができる」と> 82で書いたのは、元レスの記載が、先人の
書き残してくれているものと明らかに矛盾しており、しかも、引用元の記載を独自の独創的理
論として仮定しても、明らかに不合理であると渡海難は確信したという意味で、申し上げました。

 先人の言葉と一致しているかしていないかは別にして、私は、主張の内容に合理性があること
について「口先三寸で、なんとでも言うことができる」と申し上げるつもりは全くありません。
 主張の内容に合理性があることについて、もしそのように言っていたら、それは渡海難が誤り
です。

129 :101:2007/10/13(土) 00:49:06 ID:xZrXpdcx
>>127
なかなか本題(洗脳うんぬんの件)に入らなくて申し訳ありませんが・・・

> ご意見ご指導よろしくお願いいたします。
こちらこそです

> 仏教を学んでいて楽しいことの一つは、
> 悉く既成概念を破壊されていくことでした。
> 理解していないのに理解したふりをすること、また名利心や、高慢心が
> 焙り出されても(私の煩悩では嫌だけれども)、
> それが新たな欠陥の発見(即ち、また学べるという喜び)に
> 繋がってくる。自分が受けいれられる喜び
> (煩悩の所作として当たり前な喜び)だけでなく、
> 全否定されることによって、未だ不完全たる我が身を知り、
> だからこそ学んで行こうという喜び。
> 煩悩というのは、観察すると非常に面白いものです。
私も既成概念の破壊という基本作業は、同じ姿勢を持っていると思います
ただ、私の場合、極端な物言いですが
喜びなどという言葉で表せる感情はありません
面白みなども感じません
あえて表現すると、私の場合「癖」ではないかと思います
空気を吸わないと死んでしまうように、そういう思考でないとイヤというか

直感的に言うと、全認識への無批判な自己に嫌悪感のようなものを
感じているのではないかと推測しています
そして、全認識へ無批判でないように努めたいのに、その作業そのものも
批判対象となってしまうという無限否定・・・w

対話を通して774さんのような楽める生き方も学べたらいいなと
ふと思いました


130 :101:2007/10/13(土) 01:00:15 ID:xZrXpdcx
>>128
渡海さん、はじめまして
書込みは随分前から散見させてもらっています
ところで>>125は私(101)へではなくID:Exb7xU6cへの質問です
ID:Exb7xU6cの方も中心的スレ住人なのでコテハンで書き込まれれば
このような誤解は避けられるのに・・・
まぁ、その辺は各自のお考えがあるのでしょうから
とりあえず、そういうことです


131 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 01:45:39 ID:SLT6AmEC
>獲信者とおっしゃいますが、「あの人は獲信者である」と、判断する基準は何ですか?

>判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。
私たちの意業によって認識された獲信者ならば、 不確かなものと言わねばなりません。

これは、単なる「獲信者という言葉の定義」以上のことをおっしゃってますね。
でも、意業のあやふやさまで持ち出すならば、獲信者の判断どころか、自分自身の認識すべてが不確かなものなのですが・・・。
125さんのつきつめた視点から言うならば、わたしも125さんも、培養液に漬けられ電気信号を送られているだけの脳みそかもしれない、ということです。
つまり、わたしは125さんにレスしようとパソコンに向かっている、と自分で思っているけれど、それが誤認かもしれないわけですし。
そして、誤認かどうかの確認は、究極的にはできません。それぐらい意業はあやふや。

そのあやふやな判断をたよりに、わたしも125さんも日常を生きているわけですし。
そのあやふやな判断をたよりに、わたしも125さんも善知識にたどりついたわけです。
で、このあやふやな判断を「全くあやふやなものだ!」とはっきり聞いた人、という面が獲信者にはあります(あくまで一面ですが)。

132 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 01:46:36 ID:SLT6AmEC
ついでに、あやふやな範囲ですが、わたしの獲信者の定義を書いておきます。
・他力摂生の旨趣を受得した人
・他力念仏に帰入した人
・私は、これっぽっちも、仏法を理解していない。
 理解できない私だからこそ、仏さまに助けられるのがうれしい他ない」という人
・我となえ、我聞くなれど、 南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよび声」を体得してる人

うーん、わざわざ125さんの言葉を引用したのは、これなら言葉の定義がしっかり伝わるだろうと思ったからです。
聞法した場所が違うからか、仏教の言葉の使い方やスタンスも若干ちがう感じもしましたので。
誤解してほしくないのですが、もちろん皮肉ではありません。

うーん、ほんとはこういう、あまり求道者のヒントにならないようなややこしい書き込みはしたくないのですが・・・。
125さんの一連の書き込みを見て、わざわざこんな質問を横からする人には思えなかったし・・・。
125さんは何にこだわって質問なされたのか、よく分かりませんが、
ややこしい話はややこしい割りに読んでくれてる人が疲れる人が多いので(わたし含め)、興味もありません・・・。

生意気なレスだと思われたかもしれませんが、これが精一杯の回答です・・・すみません。

133 :101:2007/10/13(土) 02:35:22 ID:xZrXpdcx
774さん
>>113についてです

> 洗脳されている人の自覚とはどのようなものなのでしょう。
私は、自覚という言葉で表現された錯覚、妄想だと思っています
そう思う理由は、774さんがこの後におっしゃっている
> その自覚自体、また洗脳された自覚だとしたら、
というお言葉と同じ考えに基きます
つまり、洗脳されていない(他に影響を受けていない)自立した自覚
などありえないだろうなという立場です

>>101で私が
> 自分は洗脳されていると自覚があるのなら、自分の信仰心を語る時
> それを予め相手に伝え用心させるのが責任ある態度だと思いました
と言ったのは、洗脳されていない自立した自覚など誰も持ちえない
だから、予め「自分は洗脳されている」と伝えることもできない
伝えることができないから、相手に用心を促すことも出来ない
でも、私の場合、無批判で積極的に受け入れたこと、今も種々の情報を
無批判に受け入れざるを得ない自分を悔いる気持ちがあり、そこを
なんとかできんものかという問題提起でした

これで私が表現したかったことがご理解いただけるかどうか・・・



134 :101:2007/10/13(土) 02:36:35 ID:xZrXpdcx
私は、どんな考えも妄想だと思っています
言うまでもないですが、この私の思いも妄想だと思っています
これ言っちゃうと、この対話そのものを否定することになりますがw

私の推測では「各自が種々の縁起に従い、否応無く別々の考えを持ち
それを確かなものだと思い込んで生きているだけなんだろな」です

> 泥を洗うのに泥水をもって
> 洗うのと同じことで、汚れが無くなることはないと言うことです。
ないと思います
というか、ここでおっしゃる「汚れ」とは何でしょうか?
また、なくす必要のあるものなんでしょうか?
そして、それはなくせるものなのでしょうか?
「汚れ」の定義が分からなかったので判断できませんでした

> 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
> 穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
> 虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲する、
> これ必ず不可なり。
> 親鸞聖人は何を真実だと言われているのでしょうか?
親鸞聖人の理解された阿弥陀仏の本願という言葉で表現された何か
だと思います

> 妙好人と呼ばれた方々の言動の根底には何があったのでしょうか?
妙好人と呼ばれた方々の理解された阿弥陀仏の本願という言葉で表現
された何かだと思います

親鸞聖人や妙好人と呼ばれた方々が、どのように阿弥陀仏の本願を
理解されていたのかは私には分からないというのが私の考えです

それでは今日は失礼します

135 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 06:12:43 ID:gug0NlsN
>>122さん いつもレスありがとうございます。
 私がお会いした獲信者の方は全然偉そうな方ではなく、優しく素敵な方という印象を受けました。
 本当にちょっと立ち話させてもらったような感じですが、信心の話題については、誤解を招くような表現があればすぐに厳しくご指摘されました。
 求道に関して自分が抱いていた固定観念や想像をいい意味で裏切られました。
 今までは獲信といっても非常に抽象的な話で、具体的な想像をする手がかりも少なかったのですが、
 獲信者が普通にそばにいるという環境はとても心強く、そして励まされるものだと知りました。
 こういった恵まれた環境があるなどということは今まで想像もしてこなかったことです。
 10年近くボンヤリとした不安を抱いたまま足踏みしていた自分がまたこうして一歩進もうとしていることも>>122さんにここで会えたご縁のおかげです。
 ありがとうございます。新たな出発、再チャレンジです。

136 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/13(土) 08:46:44 ID:RYIWPQM3
>130
 どこのどなたか存じ上げませんが、はじめまして。
 最近、ある方に八つ当たり的な大変失礼なメールを送ってしまった
ことがあります。もしかしたらメール送り先のその相手の方かな、などと
勝手な想像が頭をかすめました。おそらく別の方でしょう。
 2ちゃんねるは匿名が原則ですから、詮索はしません。

> ところで>>125は私(101)へではなくID:Exb7xU6cへの質問です

 そうでしたね。質問先はID:Exb7xU6に向かっているようですね。失礼しました。

137 :101:2007/10/13(土) 12:23:35 ID:xZrXpdcx
>>136
渡海さんレスありがとうございます
ご想像されている方と私は別人です
ある方を連想されたようなので、おそらくその方と私の意見が似ている
と感じられたのでしょうね
私の場合、特定の誰かに教えられて得た結論ではないのですが
ありふれたものなんでしょう

私は気に入ったスレを気が向いた時にROMっていた程度の人です
ですから、今まで渡海さんともお話したことありません
お話したいと思ったこともありましたが、教学面、論証面において
対等に話せるほど私には力量がないので差し控えていました
今も渡海さんに対しては同じ思いです
アクセスログからプロバイダ経由で住所を割り出すとかしない限り
詮索をなさっても特定できないですよ
まぁ、個人特定をする為に詮索されるのはイヤですから
詮索しないと仰ってくださることをご好意として受取らせてもらいます


138 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 12:46:12 ID:76Z3BDPc
                 渡海           「!/7
                  ↓           /ふ(⌒r_-_、_
                / ̄ ̄ ̄ ̄\    .l'、そrィ(_,,},}ニ)
             (  人____)    l ` ''ー<´..... __゙!
             |ミ/  ー◎-◎-)     ゝ.,,______ |
            ,r (6     (_ _) )   |ミ/  ー◎-◎-)
          ,/ヾ<|/ ∴ ノ  3 ノ   (6     (_ _) )←101
       ,.、‐'":ヽ::::\ __  __ノ      |/ ∴ ノ  3 ノ
      /::::::::::::::::ヽ::::::ヽ `/)乙二ス、   ,rニ ̄`ヽ   __ノ
     /:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::;/ ーンノハヾ,!} /- ... `ヽ、 ,! ! ヽ
   /::::::::::::::::::::::::::::::/^i´    /(_, イヽ'    :..  \,!  : ',
.   i:::::::::::::::::::(⌒/:::::::::::l,r‐ァ''";!/:i,  |:::::::゙!      :..  \:  ',
    !:::::::::::::;:、-'":::::::::::::::::::|::/::::;:':{;::::i, |:::::::::} :. i    :.. ヽ :. ',
   }::::::;:::'::::::::::::::::::::::::::::::::|'::::;:':__:i;::::::i, l;::::::::|  ヽ _,,..、、-‐ 'i ゝ,
   |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|:;:':::|ll|::l;:::::ヽ.',:::::;!   ゙i      ノ .: )
    ,!:::::::::(⌒)::::::::::::::::::::::::::|::::::|ll|,r;|:::::::::'J:/  ``ヽ、  __,,. r=ニ=ュ __
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    |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|,./'ii'彡|::::::::::::゙!   └- 、.,,__`''''ー:--:‐''''´ _,. -┘
   |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|"'"´';:::|:::::::::::::|ヽ.     |::::::::_`::''''┬t‐‐'_"::::|
   |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|   ;'::|::::::::::::::! \  |::::{´ `i;::::l:::l::i´ `i::|

139 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 22:08:54 ID:SLT6AmEC
>私がお会いした獲信者の方は全然偉そうな方ではなく、優しく素敵な方という印象を受けました。
 本当にちょっと立ち話させてもらったような感じですが、信心の話題については、誤解を招くような表現があればすぐに厳しくご指摘されました。
 求道に関して自分が抱いていた固定観念や想像をいい意味で裏切られました。

これはもう・・・これを聞いてわたしもうれしいです。

>10年近くボンヤリとした不安を抱いたまま足踏みしていた自分がまたこうして一歩進もうとしていることも>>122さんにここで会えたご縁のおかげです。
 ありがとうございます。新たな出発、再チャレンジです。

135さんのような真摯な求道者の姿から、阿弥陀仏の大願業力を思い知らされるばっかりです。
南無阿弥陀仏

140 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 22:10:01 ID:SLT6AmEC
どなたかご自分の求道に関して悩みなどある方おられますでしょうか?


141 :7:2007/10/13(土) 23:48:22 ID:gug0NlsN
>>139
レス有難うございます。真摯な姿とは程遠い私ですから、恥ずかしいばかりです。
 あれから貪るように書籍を読み始めてみました。思わず泣けてきました。
それから「後生の一大事を心にかけて」聴聞するがごとくに朗読しつつ、読んでみましたが・・・
 どうにも後生とも一大事とも驚かぬ心というか、微動だにしない心というか、「今、いざ後生と踏み出したらどうか」と
どれだけ問い詰めても全くもって無反応・無感動な心が感じられてきました。この感覚は久しぶりです。
ああ、これは、今日獲信するぞ、今聞かせていただくぞという求道姿勢だった頃に知った感覚かも知れません。
あの頃はそれと気付かず、具体的に把握できなかったのですが、今それが何か分かりやすく説かれていて、
遭難者がやっと具体的な地図に出会えた時のような喜びを味わっています。
はっきりと現在地がわかるところまでまずは進みたいと思います。

142 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 00:04:48 ID:FARuMDDJ
>はっきりと現在地がわかるところまでまずは進みたいと思います。

ぜひぜひ。また分からなくなったら、聞いてください。
「分からない自分、聞けない自分」に出会っていく、という、なんとも矛盾した求道を味わうことになりますが、
その先には自分よりはるかに大きな阿弥陀仏に抱かれている自分、を発見する瞬間があります。
そしてその、7さんが出会われた獲信者など、信頼できる人にアドバイスを直接うけるのがベストです。
というのも、獲信者の特異な喜び・懺悔ばかりを目にして、余計な頑張りをしてしまい遠回りする求道者がほとんどです。
「ああ、獲信者もまったくわたしと同じところがあるんだ」という点をしっかり押さえて、
そのうえで彼らがやっていること(自分の思いを横に置いて、本願を聞くこと)をマスターするのが早道です。

いや、しかし・・・うれしいです・・・。南無阿弥陀仏

143 :774:2007/10/14(日) 01:05:15 ID:axp6AGKE
>131-132
お返事ありがとうございます。遅くなりすみません。
私が、特定の個人を指して「誰々は獲信者である」と
するような表現に疑問を投げ掛けたのは、
凡夫が「獲信者」という太鼓判を押す失があるように見えたからです。
思えば、『仏敵』という求道記に出てくる念仏道場の人々も、
その傾向がありました。他人の体験を捕えて、「あなたはまだ獲信していない」、
あるいは、「あなたは真の信心を獲得しましたね、
今日から私たち(獲信者)の仲間ですよ。」
等、本質的に誰が誰を分別しているのか、一つ反省が必要だと、
私自身も『仏敵』を読んで思ったのでした。
高森顕徹氏も華光会在籍時に太鼓判を押された方の一人でしょう。
太鼓判を押されれば、「自分は獲信者である」という、
他力回向の一心の他に「要らない自覚」(ふたごころ)
が芽生えるきっかけとなり、高森氏のような方を生んでしまう要因とも
なったのではないかと考えた次第であります。
また、獲信者集団であると言う自覚に基づく
優越感(煩悩の所作)に対し、無批判になるということ、
優位な集団としてのセクト化という傾向もあげられます。
これは『仏敵』に出てくる念仏道場もそうでありました。
無碍光をセクト化すること自体ナンセンスですし、
大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう
過失が生じる恐れもあります。
また、親鸞聖人は個人を指して獲信者と規定するような表現を
されておりますでしょうか。
同行・同朋という言葉があるのですから、
そちらを用いた方がよろしいのではないかという事も
ご一考賜りたく思うのですが、いかがでしょうか?


144 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:10:28 ID:FARuMDDJ
>143
131、132です。レスしようと思ったんですが・・・
あの・・・、おっしゃっていることのニュアンスが前回といきなり変わっているんですが・・・。

前回は
>判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。 >私たちの意業によって認識された獲信者ならば、 >不確かなものと言わねばなりません。

つまり「意業による認識ならば不確か」だから、「だれだれは獲信者」という言葉は使うべきでない。

今回は
>高森氏のような方を生んでしまう要因ともなったのではないかと考えた次第であります。
>優位な集団としてのセクト化という傾向もあげられます。
>大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう
過失が生じる恐れもあります

つまり
「高森氏のような方を生む要因となる」「セクト化という傾向」「大信海を煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」
があるから、「だれだれは獲信者」という言葉は使うべきではない。

うーん・・・もしかして違う方の書き込みなのでしょうか・・・?
いちおうレスしてみます。
>「高森氏のような方を生む要因となる」>「セクト化という傾向」>「大信海を煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」

これらは全て推測ですね。意業というあやふやなものの中の、さらに確実性の低い推論です。
わたしもあやふやなこの推論というものでお答えしようと思います。
>「高森氏のような方を生む要因となる」
これは、獲信者の太鼓判が要因というより、本人の資質が大きいと思われます。
なぜなら、華光会から第2・第3の高森氏が生まれていないから。
ちなみにS会では、「獲信したら、会のヒエラルキーが崩れるので、除名される」という現象が起きているそうです。
この現象は、求道に苦しんでいた求道者が獲信体験を通過して、晴れ晴れとした顔をしているのを獲信者が見て
「ああ、もしかしてあなたも阿弥陀仏にお会いされたのですね」という単純なうれしさとは、まったく異質のものです。

145 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:11:14 ID:FARuMDDJ
>優位な集団としてのセクト化という傾向
これは、「おれたちは特別だ、正しい。世間はダメなやつらばかりだ」という感じの集団でしょうか?
そりゃ、信後の聴聞を怠れば、このようになるかもしれませんが・・・。
ちなみにこの念仏道場(奈良の野口道場)では、今はもう信心の沙汰をする集まりはなくなっています(建物はまだあったはず)。
また、伊藤康善氏も故人となっておられます。なのでセクト化してたかどうか、分かりません。
しかし、わたしは獲信後に、華光会には数回行ったことがあります。
(獲信前にいかなかったのは、土蔵秘事だと思っていたわけではなく、たんに遠かったから。)
しっかり信後の聴聞の指導が行き届いていました。はい。
かんちがいした獲信者(獲信したからオレは未信者よりえらいんだ、という態度のひと)には、
「自分にはいばれるようなものは何もないことを聞いたのでしょう。聞く耳をいただいたのならば、
 信心を自分のものにしないで阿弥陀仏の本願を聞いてください」というアドバイスがありました。
信後の聴聞をきっちりやれば「すべて他力の働きなのに、それさえも自分の力だと思い込んでいる自分」
を懺悔させられるので、セクト化とは反対の方向に向かいます。
信後の聴聞を怠っている人は、獲信者というより、「過去に獲信らしき体験があった自称獲信者」です。
また伊藤氏は「何か感動をともなう体験をした求道者に『よかったね』と言ってはいけない。変なものをつかませてしまう恐れがある」
と指導していたそうです。
だからなんだって話ですが・・・。

146 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:12:00 ID:FARuMDDJ
>「大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」

これは・・・この過失は凡夫には常に生じていますよ。
凡夫は仏法をおもちゃにするもの。仏法をもてあそぶもの。
その凡夫を救うという阿弥陀仏の本願を聞くからうれしい。
これも、信後の聴聞をしっかりさせていただくこと、だけですね。

>また、親鸞聖人は個人を指して獲信者と規定するような表現を
されておりますでしょうか。 同行・同朋という言葉があるのですから

こりゃ、分からないでしょう。文書で残ってないだけで。
蓮如上人は晩年に「信心のある者以外には会いたくない」と言っていたらしいので、してたみたいですね。

以上のあやふやな推論を回答とさせていただきます。
できればそろそろ終わりたいです、ちょっとしんどくなってきましたので・・・。

147 :7:2007/10/14(日) 09:48:47 ID:EXuhuutW
>>144-146 横レスごめんなさい。朝から妙好人さまとお見受けする方の書き込みが目に触れて、思わずテンションが上がりました。
なるほどなるほどと、合点させていただきました。

 ところで話の流れに沿わない内容で申し訳ありませんが、質問させて頂いてよろしいですか。
「後生の一大事をこころにかけて」聴聞しようとすればするほど、
全くそうはならない自分との戦いになってしまって疲れるというかシンドイ感じになります。
ただ聴くだけとは違う求道の苦しさというものは、そういう感じになってくるものなのでしょうか。
よろしければ教えて頂きたくお願い申し上げます。

148 :774:2007/10/14(日) 12:17:53 ID:axp6AGKE
言い方が悪かったかもしれません。すみません。
獲信者と未獲信者と分けてしまう憶測そのものに、意味があるのか?
また、憶測による分別作用を無批判で流してしまうのはどうか?
例えば、私が獲信者だと思っていた人が、
実は獲信者でないこともありえるし、獲信者でないと思っていた人が、
獲信者であると言うこともありえるわけです。
所詮は、不確かな意業による判断に過ぎないのですから。
その不確かな意業によって、他人の意業を詮索する、判別する行為自体、
願力回向たる信心を意業におとしめていることにはならないか?
ということです。
「おとしめるような私なればこそなあ、もうし」なればこそ、
獲信者の規定自体、はからいにすぎないとは言えないでしょうか?
次に、信後の聴聞という言葉の出拠は何処にありますか?
求道体験・また教学追求を先とすると、親鸞聖人の仰ることは後になります。
徐々にその進む方向がずれていくこともあるのではないでしょうか?
信心の談義をする上でも、お聖教と照らし合わせる作業をおざなりには
できません。

149 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 14:23:27 ID:FARuMDDJ
>148
>所詮は、不確かな意業による判断に過ぎないのですから。

うーん・・・
ふたたび意業にもどりましたね。

すみませんが、なぜそこまで「獲信」「未獲信」の区別を嫌うのか、わたしにはもう分かりません・・・。

144-146で答えたように、「獲信」「未獲信」の区別には、大きなデメリットはありません。
そりゃ信後の聴聞を怠って「お前は未信だから、おれの方がエライ」などと言い出したら、問題ですが。

なにか、148さん自身に、この区別を嫌う個人的な理由(悲劇的な場面を目撃した、とか)があるのでしょうか?

150 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 14:39:24 ID:FARuMDDJ
>147
>「後生の一大事をこころにかけて」聴聞しようとすればするほど、
>全くそうはならない自分との戦いになってしまって疲れるというかシンドイ感じになります。
>ただ聴くだけとは違う求道の苦しさというものは、そういう感じになってくるものなのでしょうか。

求道上の話には、わたしもテンションが上がります。ありがとうございます。
えー、このしんどさはですね、聴聞のポイントがわずかにズレている状態です。
(でも、早くもこのしんどさにたどりつかれた、というのは、とてもセンスが良い方だと思います)

「後生の一大事をこころにかけて」と言いますが、もしこれが出来る人なら、「罪悪深重の人」とは言えません。
どちらかというと、「後生の一大事がこころにかからない」という方が、「罪悪深重の人」と言えます。
なので、こころにかからない人こそ、阿弥陀仏の正客(お目当て)だということです。

だから、「後生の一大事をこころにかけるぞ!」といって不可能なことに力むよりも、
「阿弥陀仏は『あなたは後生の一大事をこころにかけられない人(罪悪深重の人)だよ』と言っているが、本当だろうか?やってみよう」
という感じで、自分が後生の一大事をこころにかけられるかどうか、挑戦してみてください。
絶対できませんから。できたら菩薩さまです。できなければ、阿弥陀仏の正客です。

後生の一大事をこころにかける・真剣に聴聞する・無常をとりつめる・罪悪をとりつめる。などなど、
いろいろアドバイスはありますが、
「後生の一大事をこころにかからない自分・真剣に聴聞できない自分・無常をとりつめられない自分・罪悪をとりつめられない自分」
がある程度発見できれば、これらのアドバイスは、捨てて捨ててOKです。
それよりも、「阿弥陀仏の本願を繰り返し聞くこと」が1000倍重要です。

147さんが後生の一大事をこころにかけられないような、どうしようもない人だからこそ、
阿弥陀仏は万善功徳がつまった南無阿弥陀仏を用意してくださったのだ、という本願を聞いていってください。
147さんの後生をかならず救うよ、という本願を聞いていってください。

ここらへんはほんとにデリケートなところなので、分からないことはなんでも聞いてください。

151 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 15:23:41 ID:TU9EpCvV
ここは自称「妙好人」しかいないスレですね

152 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 15:45:16 ID:KMoXm20r
うちは大谷派なんですが、住職が
「死刑は絶対に認められない。なんでもかんでも死刑にすればよいという風潮は間違っている。
 韓国が死刑を廃止しましたね。先進国で死刑が在る国は日本ぐらいのものです。恥です。
 昔から我が宗派は死刑に反対してきましたよ。うんたらかんたら」
しゃべっておりましたが、疑問があります。
60年前の戦争には反対したのでしょうか? 宗派をあげて戦争勝利を祈祷したそうですが、どうなんでしょう。
戦国時代は敵の首を取れば極楽往生できたのではなかったのでしょうか? 悪人往生だから何でも在りなんですか?
どんな悪人でも往生できるから野放しにして良い、と聞こえましたが、
死刑にしなかったがためにこれから犠牲になる人は善人で往生するんだから
死んで(殺されて)よいのでしょうか? 遺族の感情はどう責任を取るつもりなんでしょうか?

法要の席だったので質問もできずもんもんとしております。
どなたかお答えを賜りたく存じます。

153 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 16:16:26 ID:jO4JmuY4
僭越ながら、わたしは>>148さんの危惧に共鳴しますね。
>>149さんの説明には説得力がないように思います。
要約すると
・信後の聴聞さえしてれば大丈夫なはずです。
・今のところ問題が起きているように思えません。
・蓮如上人も支持されていたらしいです。
このように聞こえますが、このような回答ではまるでお役所の苦情封じです。
教学に裏付けられた抜本的な解決がなされているとは言い難いレベルだと思います。

ある人が信心をえているかどうか、判断するのに
あるレトリックを決して嘘をついているとは思わない程度に使っているからそうにちがいない、
長い間いっしょにいて自分が信心と思っているものと差異があるように思えないという手応えがある、
というあやふやな感覚に基づいて行うことが可能なのであれば、そしてそれが主流として認められるに至れば
著名な信心判定人に判断してもらおうと、特定の人間をあてにする門徒が続出するのではないでしょうか?
わたしなどは確実にそのような失におちいると思いますね。
他人の信心判断は、こうこうこういう理由でこの程度まで問題ない、ここからはダメという教学に基づいているとか、
そうではなく、信心は師資相承であり、師と弟子との間の阿吽の呼吸によって認可される捉えがたいものであるとか
そういった持論を展開してもらわないことには信心という理解しがたい微妙なものを占有する少数の人々によって
信心獲得というあんしんをうるために隷属的な立場を余儀なくされる被害者を無自覚な中に量産していくことに
なると思います。煩悩一杯の人間が組織するものなんですから。

149さんがどのような程度で信心の判断、認定を行うことを認めているのか、
また信心をうるということをどの程度重要視しているのか、
(信は得やすいが、信後の態度でその人の信心が試されるのが真宗というスタンスの人もいますし)
いまいち、ここでは判然としませんので、それがかえって誤解をうんでいるのかもしれませんね。
これからきっちり教学でコンセンサスを求めていくという方向に向かった方がいいのかもしれません。


154 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:06:32 ID:FARuMDDJ
こんばんは、ここ数日回答させていただいているものです。
どなたかご自分の求道について悩みなどある方おられますでしょうか?

155 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:32:19 ID:KMoXm20r
>>154
152ですが

@ 60年前の戦争には反対したのでしょうか? 宗派をあげて戦争勝利を祈祷したそうですが、どうなんでしょう。
A 戦国時代は敵の首を取れば極楽往生できたのではなかったのでしょうか? 悪人往生だから何でも在りなんですか?
  首を切られた敵はどうなるんでしょう? 地獄行きですか?
B 結局、どんな悪人でも往生できるから野放しにして良い、と聞こえましたが、 罪人を死刑にしなかったがために
  これから彼ら残虐な殺人鬼によって犠牲になる人は善人で往生するんだから
  死んで(殺されて)よいのでしょうか? 遺族の感情に対してははどう責任を取るつもりなんでしょうか? 取れますか?

156 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:48:15 ID:FARuMDDJ
>155 @AB

すみませんが、これはあなた自身の求道上の質問ではないようですので、答えを控えさせていただきます。
他人はどうなんだろう?ではなく、自分はどうなんだろう?というスタンスでないと求道にならないので。



157 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:49:12 ID:FARuMDDJ
どなたかご自分の求道について悩みなどある方おられますでしょうか?


158 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:50:50 ID:KMoXm20r
>>156
自分を客観視することが求道にならないとは、気づきませんでした。
自分を恥じて再度、初心よりやり直します。それにしても驚きました。

159 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:54:04 ID:KMoXm20r
>>156
自分の求道について質問した人に、他人のあなたが答えられると考えておられるようなのが
どうもわからないのですが、ひょっとしてバカですか?

160 :774:2007/10/14(日) 21:12:54 ID:axp6AGKE
>149
酔っ払いが絡んでいるようで、大変申し訳なく思っております。
興味がなければお聞き流し下さい。
さて、私の疑問の根本は、
私個人が悲劇的な出来事を経験したかしないかではなく、
獲信者か未獲信者か、判別することが、
他力回向という親鸞聖人のお示しに適っているのでしょうか?
と言うことなのです。また、あなたは求道に関して(求道と言う言葉も
安易に使うべき言葉なのかどうか疑わしいのですが)、
他人にアドバイスできる立場として、盛んに呼び掛けられているようですが
(弟子一人も持たずと言われたという親鸞聖人自身、
そのような立場をとっていたのでありましょうか?)
その行為の裏には、何が潜んでいるか、
自分自身に尋ねてみたことはありますか?
阿弥陀如来の本願に照らして、反省したことがありますか?
自分の求道体験自身が全く転倒した虚仮不実なものだと
反省されることはなかったのですか?
さらに、虚仮不実な求道を他人に勧めてもよいものなのでしょうか?
人は千差万別です。受け取り方も相手様次第。
私は自分の体験を勧めることは自己顕示欲のあらわれだと考え、
躊躇します。そんなあやふやなものより、
躊躇なく伝えられるものがあるではないか、と言うことです。


161 :7:2007/10/14(日) 21:18:26 ID:EXuhuutW
>>150 レス有難うございます。求める・捨てる・転換するという本願そのままのお答えを、
分かりやすいお言葉で説いていただけたものと了解させていただきました。

 自分の求道のことなのに、他人に聞く以外の方法を知らない大バカモノの私ですがまた質問させていただきます。
求道について、お経に説かれていることと、いくつかの体験談から、獲信への道程が具体的に見えてまいりました。
先日お会いできた方は大変優しく好感の持てる方だったのですが、押し付けがましい人は私も苦手です。
いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。
求道の入り口で早くも卒業試験を受けさせてもらえるつもりでいるような質問でお恥ずかしいですが、
求めていくことが、進んでいくことが怖いというのが正直な気持です。この不安や恐怖は、どのように乗り越えていかれましたか?

162 :このスレに辿り着かれた皆様へ。:2007/10/14(日) 21:37:09 ID:EXuhuutW
このスレに辿り着かれた皆様へ。
このスレは、自身の後生の一大事の解決が出来ない悩める求道者が、何とかその手がかりを求めて、
後生の一大事を解決された先輩方に質問させていただくために建ててもらったスレです。
真宗の歴史や政治的立場や、いろんな会派組織について質疑応答するスレではありません。
また、教学のみを追求する立場のスレでもありません。
私は獲信したから答えましょう、それはどこまでいっても自己申告、自称妙好人でしかありえないかも知れません。
ですが、人の心を見る能力など誰にも無い、それは人間の限界であって仕方ありません。
信心獲得したかしないかは大問題という立場ですから、未信入信を区別せねば始まりません。
もちろんその区別が自身の求道において大きな障害となるのであれば、それはそれで厳しくご教導願います。
他人へのアドバイスが、自己顕示欲の表れということもそれが人間の自性です。
それでも、私はアドバイスが欲しくて仕方が無い。自身の問題なのに他人に聞くなど以ての外でしょうか?
ならば、聴聞すら論外ということになってしまいますが・・・仏法は先ず人より聞く他にないのではありませんか?
全てが弥陀のご説法と、食事をしてもTVを見ても、寝ても覚めても法を聞ける尊い方なら別でしょうけれど。

163 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:39:08 ID:YonE7/yf
>このスレは、自身の後生の一大事の解決が出来ない悩める求道者が、何とかその手がかりを求めて、
>後生の一大事を解決された先輩方に質問させていただくために建ててもらったスレです。

後生の一大事を解決された先輩方って、そんな奴いねーだろ。
自分で思い込んでる人ならいるだろうけどな。

164 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:51:21 ID:EXuhuutW
>>163 私もいないと思ってきました。そもそも、死んだらどうなるか全く分からないのです。
 消える?確かに肉体は焼いて灰となってしまうことは何度も見てきましたが、心も消え行くのか、現代科学は何も答えてくれません。
 この世の苦しさから逃れるために、消えるのならば死のうとしましたが、消える保証が得られず、死に切れない人生でした。
 死ねば悲しむ人がいるといっても、消えた自分には何の関係もありません。
 死ぬことで「自分」という存在が完全に消え、楽しみや喜びが無い代わりに苦しみも悲しみも消えるならば。
 心は脳にしか無いと断言できますか?化学反応の産物でしかないと割り切れますか?
 好きな人がいて、憎い奴がいて、楽しみがあって、悲しみがあって。この全てを物理化学で処理して情を捨て切り、
 湧き上がる自分の人生そのものへの思いも脳のシナプスの所作に過ぎずと達観し、この世限りと生きられますか?
 それはそれで凄いし、そのように確信できた方がうらやましくもありますが・・・

165 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:52:55 ID:FARuMDDJ
>その行為の裏には、何が潜んでいるか、
>自分自身に尋ねてみたことはありますか?
>阿弥陀如来の本願に照らして、反省したことがありますか?
>自分の求道体験自身が全く転倒した虚仮不実なものだと
>反省されることはなかったのですか?

うーん、すみませんが今回でレスは終わりとさせていただきたいです・・・。
あなただって求道した時期があるはずですが・・・。
自分に自己顕示欲しかない、自分の求道は虚仮不実のものだ、というのは、
獲信体験までたどりついた人なら1度はいやというほど思い知らされることです。
わたしだって、この嘘ばっかりの自分を何とかしようとして、求道中に何度も泣きました。
このことは当たり前の前提としてレスをしています。
ただ、自分の求道が虚仮不実であると同時に、自分に求道をさせてくれていたのは全て他力だった、ということも
いやというほど思い知らされます。
求道も念仏も説法も求道アドバイスも、すべてです。

アドバイスする立場にないのは、仏法から見れば当然です。でも、せずにおれない。
伝えずにおれない。
わたしの本性からいえばアドバイスせずに「他の人は獲信体験にたどりつかずに死んでいけばいい」と
1人ほくそえむような、悪魔の心しかありません。まさに罪悪深重の悪人。
そういうやつが後続の人に伝えずにおれんわけです。
また、「がんばって聴聞すれば獲信できる」という自力を強める方向のアドバイスをS会出身者は受けています。
そのため、わたしはとても遠回りしました。
わたしのような無駄な遠回りは、してほしくない。

ご質問とあまりかみ合わなかったと思いますが、これで回答を終わりとさせていただきます。
すみません。

166 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 22:09:20 ID:FARuMDDJ
>161

あなたの自分をごまかさない態度、こちらの下がらん頭が下がります。

>いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。
>求道の入り口で早くも卒業試験を受けさせてもらえるつもりでいるような質問でお恥ずかしいですが、
>求めていくことが、進んでいくことが怖いというのが正直な気持です。この不安や恐怖は、どのように乗り越えていかれましたか?

これは、怖くて当然です。求道でなくても、人から詰められるのは怖いもの。
で、簡単な解決法としては「詰めない」タイプの先輩獲信者を選べばいい。
そして、「詰める」タイプは避ける。わたしはそうやりました。
緊張しやすい人は、「詰められ」ても、獲信どころか、びびってパニックになっていつもよりさらに聞けなくなるのが関の山です。

わたしはどこかに「詰められないと獲信できない」という思いがありましたが、それは間違いでした。
詰められても、力んで力んで力んで体もガチガチになって「今獲信しないといけないんだ!」という思いに支配されるだけでした。

でも、「獲信しないといけない」ということは、「獲信しないと後生を救われないのだ」ということにもなります。
ということは、阿弥陀仏が「あなたの後生を必ず救います」とおっしゃっているのを完全に無視して、
「いや、いくらあんたがそう言っても信じられない。おれは獲信しないと後生は救われないはずだ」
と、阿弥陀仏をうたがっているわけです。
後生を救う阿弥陀仏の贈り物(念仏)を口に称えながら、
「この念仏ではまだダメだ。獲信しないとダメだ」といっているわけです。

ここは、力めば力むほど脱出が困難になります。

最後に、うまく無駄な力みを置いておいて、本願を聞くことをあらわした漫画があったので、リンクを書いておきます。

ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/top_menu/menu.htm

なにかあれば、なんでも聞いてください。

167 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 22:13:08 ID:FARuMDDJ
ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/nitirai_bussei/bonko/bonko31.htm

すみません、リンクはこっちでした。

168 :774:2007/10/14(日) 23:14:53 ID:axp6AGKE
>162
無限遡及で誤魔化すことがないよう、私たちはお聖教を学ぶのです。
根拠が、後生助かった自分の感情であるならば、
もはや、真宗でも、仏教でもありません。
妙好人と言う言葉さえ使うべきではないでしょう。
次に、自称妙好人、自分で自分のことを白蓮華と呼んでいるのは、
恥ずかしいことだと思いませんか?
また、無批判にある特定の人物を、獲信者だと判断するのは
(私は判断することはできないし、判断する必要もないと言っているのですが)、
間違いの始まりかも知れないと注意した方が、よいと思うのです。
余計なお世話と受け流していただいてもかまいません。
しかし、あなたの書き込みを拝見すると、
少し無防備すぎるのではないかと世間的には思ってしまうのです。


169 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 23:50:59 ID:FARuMDDJ
>次に、自称妙好人、自分で自分のことを白蓮華と呼んでいるのは、
恥ずかしいことだと思いませんか?

レスはしないつもりでしたが、あまりの誤解に1つだけ。
わたしは自分を妙好人と宣言したことは1度もありません。
そもそも妙好人というのは、もともとは本願寺が宣伝のために作り上げたものだという一面がありますし。
また、信心いただく人の中で、とくにモラル的にも優れた人を妙好人とした、という経緯があります。
わたしはモラル的には優れていませんし。
すみません、あしからず。

170 :774:2007/10/15(月) 00:15:54 ID:1sptA+/b
>165
では、最後に。三業の不確かさは、死ぬまで変わりません。
即ち、仏性である信心について、教示できる立場にある人など、
誰も存在しないのです。親鸞聖人によれば、
皆、仏弟子です。皆それぞれに仏の教化を受ける仲間でしかありません。
獲信を自覚した人は、私は知っている、私は経験した、と我を張ります。
仏法は無我にてそうろう。自覚は役に立つどころか、実は足枷です。
信一念の体験が破されるような批判に対しては
耐えがたい苦痛を覚えるようになります。過去の体験に縛られ、
破壊されることを恐れるからです(本当は楽しいことなのに)。
聴聞がいつも初ごとなのは何故でしょう。
真実信心は相続心であると言われるのは何故でしょう。
信一念は過去の体験に押しやられるべきものではなく、今、ただ今だから、
相続心と言うことができ、いつも初ごとで劣化しないのです。
私の三業は劣化しますが、阿弥陀仏の劣化する私たちを必ず救うという
誓いは、劣化しないから、相続心と言い、
劣化し続けている私にとっては、常に初ごとです。
聞ける立場(獲信者)、聞けない立場(未獲信者)などと、
どっちも変わらん、どのみち劣化する三業で、はかるなと言うことです。
もう迷わせないと誓って下さった方が、
死んでもお前をはなさないと(摂取不捨)と言って下さっているのに。
一体、何を信じているのか?何を求めているのか?
遠回りなどと悠長な身の上でもないだろうに、自覚など必要なし。
毎日本願を聞き、毎日称名の日暮しです。
南無阿弥陀仏


171 :774:2007/10/15(月) 00:33:33 ID:1sptA+/b
>169
それはあなたへのレスではありませんよ。ちょっと自意識過剰気味では?
ところで、私たちは、我執を離れることができませんが、
できないからこそ、仏の悟りと照らし合わせて、恥ずかしいと痛みいることができます。
私も、きつい言い方をしてしまって申し訳なかったです。
しかしながら、仏教の発展自体が論争の歴史でありましたから、
致し方ない所もあるのでは?と言い訳しておきます。それでは。
南無阿弥陀仏

172 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 05:28:07 ID:dHKEwiMU
なんだか、
だまれ、聞け、それをだまれと言っているんだ、それを承知で聞けと言っているんだ、いやそれをだまれと・・
と、先の取り合いになってますね。というか仏様の取り合いでしょうか。


173 :7:2007/10/15(月) 06:46:32 ID:3WsCslSs
>>150さんのレスをもう一度思い返してみました。
 それで、もう一度質問させてください。

 以前、「自力がだんだん薄まるような感じ」と教えていただいたことがあるように思います。
 ピンとこなかったのですが、これは「どんどん捨てていく」姿ということですね?
 「頑張って聞いている」とか「今だ、今だ」と自分から必死になろうとする、そういう心をどんどん捨てていく。
 そんなもの握っていては後生は通られんとどんどん捨てていく。
 そして捨てて捨てて、ご本願を聞かせていただく。そういう姿勢ということでしょうか?

174 :774:2007/10/15(月) 06:48:10 ID:1sptA+/b
>172
全く違います。よく読んでほしいと思いますが、
書き方が悪かったのかもしれません。
ポイントは、体験の有無を沙汰する行為を凡夫が行えるのか?から始まり、
信一念を過去に起きた体験と採っていいのか?つまり、
親鸞聖人が仰せになられた他力の信心とは、真実の体験が一回あって
(現在から見れば過去に)、それをもって往生治定と認識し
(衆生の意業によるのは無論)、
後は信後の聴聞によって、その体験を支えていく、という
構造を持つものととらえていいのか?と言うことです。
それとも、あくまで凡夫は、仏の法に対しては何時であっても
聞く立場でしかなく(必ず助けるという仏勅に対しては完全に受動的であって)、
こちら側から意業を働かせて、獲信体験をしたとか、
体験の有無を基準に、獲信者の判別をするなどは、
必ず助けるという仏勅そのものではないから、
当然、差し控えるべきものと考えるべきなのか?
と言うことです。    非常にデリケートです。

175 :7:2007/10/15(月) 06:54:41 ID:3WsCslSs
>>166 ご丁寧なご回答ありがとうございます。
 早くも「詰められねば救われない」などというものを握っている自分に驚きました。これも捨てモノなんですね。
 獲信という未体験の世界を勝手に想像して、「獲信せねば、獲信せねば」と力み続ける。これが疑情でしょうか?
 どんどん捨てて進んでいきたいと思います。

176 :7:2007/10/15(月) 07:10:25 ID:3WsCslSs
>>168 レス有難うございます。
 常に、信心を計る定規はお聖教以外にはないと肝に銘じております。
 いかなる不思議な体験も、後生の役にはたたんと、自身を戒めているのです。
 人が獲信したかどうか判断は出来ないしする必要はない、仰るとおりだとも思っているのです。
 それでも、体験もなく疑いを持ったまま受け売りで説法をされるのは、無免許医に手術を任せるようなもので怖いものです。
 もちろん免許があっても、いくらでも藪医者はいるわけですが・・・
 確かに私は無防備に過ぎるかもしれません。ご心配ありがとうございます。
 そのせいでいろんなものにハマって、何度もひどい痛い目に遭ってきました。
 しかし、世の中がそういうものでしかないなら、それだけのこと。本当ならもう誰にも関りたくないぐらい疲れ果てました。
 それでも、まだ遣り残したことがある、忘れ物がある、死のうにも死後がハッキリしない、生きている間に求めるしかないなぁと思っているのです。

177 :7:2007/10/15(月) 07:16:38 ID:3WsCslSs
>>170 うーん、、、三業で計るなということには納得しますが、それだと生きている間にハッキリしたとしかしないとか関係ない、とも受け取れます。
 まさか不体失往生を否定される方だとは思いませんが、ちょっと十劫安心を思い出してしまったので、質問させてください。
 自覚などいらない、とはどういう意味で仰られたのでしょうか?

178 :7:2007/10/15(月) 07:32:28 ID:3WsCslSs
>>174 私もそこは気になります。信心の沙汰をせよ、と蓮如上人が言われたのはなぜなのか。
   他力の真実信心獲得の体験は一度きりだと聞いておりますが、信後の聴聞は体験を支えるためのものではないと思っています。
  そんな後から支えねば崩れるようなものは役に立ちません。
  ただ、まわり中、未信の人しかいない環境で、説法している人すら未信だった、ということがありまして、本当に不安な求道時代がありました。
  まったく、行ったこともない人に「あの観光地は素晴らしいから一度行ってきなさいよ!」と勧められているようなものです。
  じゃあどうして先ず自分が行かないのか?そして誰も行かないのか?もしかして行けないんじゃないか。不安だらけでした。
  獲信したかどうか判断できないことは肝に銘じつつ、「こんな世界だったよ!だから君も行こう!」と言われたいのです。
  そういう心がもう間違いの元で、捨てモノだと言われたら返す言葉もありませんが・・・

179 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:47:52 ID:32r7dC61
ここ数日回答させていただいているものです。

>早くも「詰められねば救われない」などというものを握っている自分に驚きました。これも捨てモノなんですね。
>獲信という未体験の世界を勝手に想像して、「獲信せねば、獲信せねば」と力み続ける。これが疑情でしょうか?
>どんどん捨てて進んでいきたいと思います。

はい、そういう力みも疑情です。
阿弥陀仏は「獲信しないとダメだよ。獲信しないとあなたの後生は救わないよ」とは言っていません。
「あなたの口から出ている南無阿弥陀仏に、後生を救う万善功徳をこめているんだよ」といっています。
ということは、つまり、後生に対しては、獲信は必要ない、ということになります。
だって、念仏なんてときどき称えているでしょうし、それで後生が救われるわけだから。

しかし、わたしはそれでは納得できなかったです。

だって、救われた実感がない。
だから信心を求め、求道しはじめた。
ですが、
もうこの「救われた実感がないから、納得できない」という思いにとらわれて求道しだした時点で、
阿弥陀仏のおっしゃっていることをわたしは「聞いてない」わけです。

180 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:49:25 ID:32r7dC61
求道者はこの「獲信せねば、信心得ねば」の思いにとらわれて、しょっちゅう阿弥陀仏の本願を聞くことからそれてしまいます。
でも、そのとらわれから戻って、本願を聞けば聞くほど、「本願を信じてない自分」「本願をいくら聞いてみても、しっかりした信心が生まれない自分」を発見していきます。

なので、「獲信せねば、信心得ねば」の思いにとらわれてしまうことに気をつけてください。
そういう思いが出たら、客観的に「ああ、わたしのこころは、獲信せねば後生救われない、と思っているな。ということは阿弥陀仏の念仏をまったく無視しているな」
「まったく阿弥陀仏の本願を聞いてないな」「わたしは本願を信じられないな」「阿弥陀仏のことをおとぎ話だと思っているな」
と、クールに観察してください。

そして、ふたたび聞く。自分の中の阿弥陀仏を無視するような思いをも救う、というふうに、自分から出た思いをあてはめて聞く。
阿弥陀仏は「まったく阿弥陀仏の念仏を無視するような人」「本願を聞かないような人」「本願を信じられない人」「阿弥陀仏のことをおとぎ話だと思っている人」
を救うとおっしゃっている、と聞く。
つまり
「このような阿弥陀仏をそしる思いが出てくるわたしを救う、と阿弥陀仏はおっしゃっている」と聞く。
わたしという極悪人を救う、と聞く。


分かりにくいとこがあったと思います。
「獲信したいと力めば力むほど、獲信体験から遠ざかる」という、求道のやっかいな部分だと思います、なんでも聞いてください。

181 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:58:16 ID:9kVtcpJA
>>178

はっきりしたものが欲しければ、
死後の世界へ行ける瞑想を試してみればどうでしょうか?

http://www.nagomi.com/monroe/#

182 :神も仏も名無しさん:2007/10/16(火) 06:46:21 ID:JtuJzqTj
>>177
自覚というか如是のこころでは?
信の置き場がどこにあるかが重要かと思います

183 :7:2007/10/16(火) 23:54:50 ID:MQLxaxwM
>>180 レス有難うございます。非常に難しいところだと痛感しております。聞いて聞いて聞き開くのみだと、今は思っています。

>>181 見れませんでした・・・

>>182 如是のこころとはなんでしょうか・・・初めて聞きました。調べてみます。

レス有難うございました。

184 :774:2007/10/17(水) 00:32:50 ID:GZdd7usg
>176-178
お返事遅れましてすみません。
@念仏の法を伝えるのに免許がご入り用ですか?そもそも、
無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、
虚仮諂偽にして真実の心ない凡夫に、手術できる免許皆伝などということなど、
あるはずがないでしょう。
だから、弥陀をたのめと勧められるわけです。「私は弥陀をたのんで救われました、
だから、人を教化できる免許があるのです」と思ったり、言ったりするのは、
二種深信の機の深信が欠落していると言わねばなりません。
一信心は必ず、開くと二種となると善導大師の仰せを
親鸞聖人はそのまま受けておられます。機の深信が欠けた信心など
存在すらしえないと言うことです。
「あなたは獲信者に違いありませんね、
そのような体験や言動をされるのですから」と周りからちやほやされれば、
上がり上がりて落ち場を知らぬ性質の我々は、
自分は免許皆伝だ、信心決定したに間違いないという妄念を
ますます真実と思い込むようになる。あさましいことです。
A十劫安心について。
『御文』にあるように、十劫安心は異義と批判されます。
阿弥陀仏が十劫の昔正覚を成じ、すでにその時に我々の往生は決定していた、
そのご恩を忘れないのが信心であるという主張が批判対象です。

ご恩を忘れない当体は何か?私の心、すなわち意業ですね。
これを信心とすることは、虚仮を真実と思い違いをすることであります。
往生は必ず不可と言うことです。
蓮如上人は、十劫安心には弥陀に帰命して他力の信心を獲たる分なし、
あるいは、我らが往生すべき他力の信心と言ういわれを知らない、
故に、大きな誤りであると仰せられます。
大きな仕事が有り、なかなかレスができません。
来月、また書き込ませていただきます。
南無阿弥陀仏

185 :神も仏も名無しさん:2007/10/17(水) 08:18:19 ID:Swv8s2Bd
思い増すに、7さんが信を獲た立場からの物言いにこだわられているのは、
親鸞会で窮屈なふんいきを体験されたからだと思います。
私は7さんの立場が親鸞会にタイする「反」としてのものなら、賛同しうるんですが
7さんの立場だけがある世界では、到底うけいれがたい、親鸞会へのそれと同じ
不快感を抱くと思います。なので、7さんをダメともよいとも言えなくなるんですが
親鸞会の会長さんも、きっと華光のおてがるな信心のふいんきにおかしなものを
かんじて、それにたいする「反」として今の親鸞会の立場があったのではと
考えたとき、なんだか笑えなくなりますね。自分たちもやはり実は過激なことを言っていて
近い未来なんらかの揺り戻しをうむ原因になるのではと恐ろしくなります。
そうすると、言葉をつむぐ勇気がなえてしまいそうになりますが、
そう考えると、ここで信をあっけらかんと表明されているような人こそ一番今のひとに
必要な方なんではと思う次第であります。

なんだかあまり考えもせずつらつらと書いてしましたが、どうかご勘弁。
お粗松

186 :7:2007/10/18(木) 00:52:06 ID:oX74tMjj
>>184 774様へ ご丁寧なレス有難うございました。

 @ごもっとも、と思いました。私の場合、信未信に拘るのは、未信の者しかいない(らしい)某会場での聞法がトラウマとなっているからかも知れません。
 自信教人信と言われるように、まず自信ではないかと。体験無き説法、疑心のままでの説教、自力が廃れぬ者に他力を教導されることの不安や白けた気持ちを、もう味わいたくないと思っていた次第です。

 A信心は私の心ではない、ということですね。他力の信心はいただくものだと。やはり難しいところです。

>>185 仰るとおり、いわゆる反動としての気持ちがまだ大きいのかも知れません。
  いわゆるお手軽な信心の雰囲気というものは知りませんが、獲信者の多い組織(もちろん自称も含まれるのでしょうが)と、
獲信者は会長とごくごく一部のご老人と既に亡くなった方しかおらず、講師ですらほとんど未信と言われる組織、
どちらがいいのか、私には分かりません。教えが正しく教えられているかがだけが問題だと今は思っています。

逆に、自分はどうして今こんなに獲信者に会ったり話を聞いたりしたいのだろうか、とそれが不思議になってきました。
仏法を聞きたいとか、求めたいとか、本当にどうかしています。
いろいろと本を拝読してみて、一度、今まで聞いてきたこと、勉強してきたことを全て捨ててしまおうと思いました。
今までの苦労はなんだったんだ、という思いよりも、スッキリ軽くなった爽快感と、新しい一歩が楽しみですらあります。
反面、恐いですが。それではまたよろしくお願いします。

187 :OKANE:2007/10/18(木) 01:11:36 ID:hTts5Vny
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2女 見玉 (京都摂受庵見秀尼弟子、浄花院流相伝)禅宗→真宗 1448-1472.8.14(25)
3男 蓮綱兼祐 (加賀国波佐谷松岡寺、同山内鮎蔵坊開山) 1450-1531.10.18(82)
3女 寿尊 (摂受庵見秀弟子→摂津国富田教行寺住) 1453-1516(64)
4男 蓮誓康兼 (加賀国滝野坊、九谷坊開山、山田光教寺、越中中田坊開基、光闡坊) 1455-1521.8.7(67)

第2夫人、蓮祐  (如了の妹、1457年、蓮如の妻となる) 1438-1470.12(33)

5男 実如光兼 (第9代本願寺法主) 1458-1525(68)
4女 妙宗 (知恩院長老椿性禅尼弟子、左京大夫、義政妾) 1459-1537(79)
5女 妙意 (12歳死亡) 1460-1471(12)
6女 如空 (越前国大谷興行寺蓮助兼孝の妻) 1462-1492(31)
7女 祐心 (白川家神祇伯前従三位資氏王の室) 1463-1490(28)
6男 蓮淳兼誉 (大津顕証寺、河内久宝寺村顕証寺、伊勢国長島願証寺開基) 1464-1550.8.18(87)
8女 了忍 (7歳死亡) 1466-1472(7)
9女 了如 (越中国井波瑞泉寺蓮欽の妾) 1467-1541(75)
7男 蓮悟兼縁 (加賀国崎田坊、中頭坊、清沢坊開山、若松本泉寺住) 1468-1543.7.18(76)
10女 祐心 (中山前中納言宣親の室、同康親、重親等の母、顕如の祖母) 1469-1540(72)


189 :神も仏も名無しさん:2007/10/18(木) 02:22:45 ID:L8zlhq6I
第3夫人、如勝  (京都に住むが応仁の乱で焼け出され、家も身内を無くして門徒となり、吉崎に来る。1473年、蓮如の妻になる) 1448-1478.8.17(31)

11女 妙勝 (山城国三栖住勝林坊勝恵の妾) 1477-1500(24)

第4夫人、宗如 (前参議姉小路基綱の娘。1481年、蓮如の妻となる)   -1484

12女 蓮周 (越前国超勝寺蓮超の妻) 1482-1503(22)
8男 蓮芸兼e (摂津国富田教行寺、名塩教行寺) 1484-1523(40)

第5夫人、蓮能 (畠山政栄の娘、畠山家俊の双子の姉。1486年、蓮如の妻となる) 1465-1518(54)

13女 妙祐 (勝林坊勝恵の妻) 1487-1512(26)
9男 実賢兼照 (近江国堅田称徳寺住。蓮誓の娘、妙慶を妻とす) 1490-1523(34)
10男 実悟兼俊 (河内国古橋願得寺住。蓮誓の娘、了忍を妻とす) 1492-1583.11.25(92)
11男 実順兼性 (河内久宝寺村顕証寺。蓮淳の4女妙祐を妻とす) 1494-1518(25)
12男 実孝兼継 (大和国飯貝本善寺) 1495-1553(59)
14女 妙宗 (京都常楽寺実乗光恵の室) 1497-1518(22)
13男 実従兼従 (河内枚方順興寺) 1498-1564.6.1(67)



190 :地の蠍:2007/10/18(木) 08:51:26 ID:NLYw01gl
           >>1
             ↓                _人
      ∩    ∧_∧            ノ⌒ 丿
       \ヽ_(    )         _/   ::(
         \_   ノ        /     :::::::\
 ∩_   _/    /         (     :::::::;;;;;;;)
 L_ `ー / /   /           \_―― ̄ ̄::::::::::\
     ヽ  | |__/ |           ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)
  | ̄ ̄ ̄\     ノ こんな     (     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
  | | ̄「~| ̄( 、 A , )クソスレ   / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
  | |  | |  ∨ ̄∨        (        :::::::::::::::::::::::::::::::::)
  し'  し'                \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ



                               __
                         >>1  l ̄/.  ___
                         ↓ / /.  / ___ノ  
                        __/ /_/ / 
      たてんじゃねー!      Y人, ' ',人⌒ヽ、, '
                      Y⌒ヽ)⌒ヽ、 人,ヽ)人'、, '
        へ, --- 、         ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)
     / ̄ ̄ ̄  、____\       (     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
    / _/ ̄「~|\ __ \     / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
   | |  | | ( 、 A , \ミソ   (        :::::::::::::::::::::::::::::::::)
   し'   し' と∨ ̄∨       \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ


191 :神も仏も名無しさん:2007/10/20(土) 00:18:47 ID:j3EUGvnc
これはもうだめかもわからんね

192 :神も仏も名無しさん:2007/10/21(日) 09:47:42 ID:PFBGvLUS
書き込みなくなったね

193 :7:2007/10/21(日) 11:43:27 ID:/LFXhXxH
いろいろと雑多な質問にご返答いただき、皆様本当にありがとうございました。
他にももっと悩んでおられる方がいるはずだとは思いましたがそうそうここを覗いたりするものでもないようですね。
またここで良き報告が出来れば幸いです。それではしばらく失礼いたします。

194 :神も仏も名無しさん:2007/10/23(火) 04:58:14 ID:jV8s22ru
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ /

195 :774:2007/10/25(木) 17:39:57 ID:kl+aaXa4
ご返事遅くなり申し訳ありません。
>186
@まず、凡夫の分際が、説法・説教することができるのでしょうか。
それは、お釈迦さまだからこそ出来うるお仕事であって、
煩悩成就の凡夫が、そのお仕事に手をかけたら、どのような結果になるか?
想像に難くないと思われますが。
凡夫の説く戯言を聞いて、信心決定するならば、
その信心は凡夫の戯言信心と言わねばなりますまい。
香月院深励という和上さまが、江戸での仕事を終え、京都にお戻りになる途中、
三河のお寺に立ち寄り、そこで法話をすることとなった。
有名な和上の法話が聞けると、遠近より大勢の人々が集まる。
満堂の本堂で、和上曰く、
「今日は、阿弥陀如来から直々の申し渡しがある。皆、心して聞くように。」
「その申し渡しと言うのは、十悪五逆の罪人も必ず助ける、
今日はここまで。」と言ったきり高座を降りて、戻っていかれた。
たった一言で、法話が終わってしまったので、集まった聴衆は不満たらたらで、
もう少しお話下さいと、和上にお願いしたが、和上は聞き入れなかった。
そんななか、一人、満足顔で席を立った人がいた。
「百のものを十に、十のものを一にして伝えてくださった。
これほどのことは、ご講師さまでなければ聞けないことだ」と。
その人こそ、妙好人のおそのさんだったと言う。
誰から聞いても同じ事。問題は何を聞くのか、と言うことです。

196 :774:2007/10/25(木) 23:48:46 ID:kl+aaXa4
南無阿弥陀仏
信心を獲ようと思うのも自力なり
信心を獲たと思うのもはからいなり
南無阿弥陀仏の本願力のよびごえの外に
自分の方から持ち出すものなし
勅命は、そのまま来たれ、はい、の信心
および声、このままにて往生す
南無至心帰命礼 西方不可思議尊
本願力にて往生す
助くるぞよも南無阿弥陀仏
ありがとうも南無阿弥陀仏
南無の二文字も六字なり
阿弥陀仏の四字も六字なり
機も南無阿弥陀仏、法も南無阿弥陀仏
六字のうちに生も死も、仏と共に旅の空
一度も聞けば、南無阿弥陀仏
これ、決定往生のしるしなり
あら、おもしろや、おもしろや、南無阿弥陀仏


197 :神も仏も名無しさん:2007/10/27(土) 03:04:40 ID:VowuMv4x
オーム。十方の、果てなく、限りない世界に安住される、過去・未来・現在 の
一切の覚った人たち、求道者たち、教えを聞く修行者たち、独り修行する修行者たちに礼したてまつる

無量寿経梵文には、最初にオーム《om=a・u・m》にはじまるこの帰敬偈が記されている

梵文和訳と漢訳の相違点…漢訳では法蔵菩薩の師仏の世自在王仏は錠光如来(燃燈仏)より数えて
五十四番目の仏となっている。これに対し梵文和訳ではディ−ンパンカラ(=ロ−ケ−シヴァラは
ヒンドゥ−教のシヴァ神の別名という)は錠光如来(燃燈仏)より数えて五十四番目の仏となっている。
これに対して梵文和訳ではディ−パンカラ(燃燈)如来からシンハ・マティ如来までの八十の仏が挙げられているが、
法蔵菩薩の師仏の世自在王仏は燃燈仏より前に出た仏として説かれている。
★漢訳では法蔵菩薩は「国を棄て、王(位)を損てて、行きて沙門となり、号して法蔵といえり。」と説かれているが、
梵文和訳には国と王位を棄てて沙門となったという記述は欠けている。

198 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 17:37:10 ID:5CurccdY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

199 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 18:29:13 ID:bJ0fEJRV
だから、現実の寺の坊主と無縁の議論をいくら繰り返しても仕方が無いと、何度言ったら(以下、略

200 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 18:49:51 ID:5CurccdY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

201 :7:2007/10/29(月) 19:16:14 ID:etjgyBny
>>774 お忙しい中、ご返答有難うございます。

    お答えに、うーん、と唸るしかありませんでした。その、「何を聞くのか」の「何」をなかなか聞かずにいる自分、腹底からしんどくなってくるのです。

 先日、十数年ぶりに聴聞させていただきました。仏法を聞き開かれた方々にも、何名かお会いすることが出来ました。感激です。
最近名前を覚えた方からこうして直接話を聞かせていただける日が来るとは、驚きです。
小さな会場ということもあるでしょうが、輪になっての聞法に嬉しくなってしまいました。 直接お話でき、いろいろ質問が出来たことにも感謝です。
 身近に同行の方がみえるというのは何とも頼もしく、心強く、嬉しさがこみ上げてきます。こんな環境に恵まれたことはかつてありませんでした。
いろいろ聞きたいことはあったのですが、今までの知識や名誉欲などが邪魔をするのか、勝手に自分の疑問に自分で答えを出してしまう傾向にある自分を発見しました。
その場しのぎや先延ばし、ごまかしばかりの人生だったなぁ・・・と改めて思いつつ、でも今は目の前に開けた希望に無邪気に喜んでいます。
ここで同行の方々にいろいろ教えていただいたおかげです。本当にありがとうございました。

202 :神も仏も名無しさん:2007/10/30(火) 00:32:14 ID:rn6Qi7/j
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

203 :774:2007/10/31(水) 14:51:39 ID:EqJzR0iy
やっと一段落つきまして、遅レスすみません。
>201
何を聞くの、聞くとは、先にあげた香月院和上の法話で言うのならば、
「十悪五逆の罪人もかならずたすける」です。
それだけ。何も珍しいことではありませんよね。
聞き分けて来い、体験して来い、何か浄土往生の資格を持って来い、
と言うのならば、他力に自力を加えたものと言えないでしょうか。
それは、もはや一心とは言えません。何故なら、必ずたすけるの弥陀の一心に、
我が心を運ぶことになるから、二心と言わねばならないからです。
苦しみ取ってから来いではなく、苦しい私そのままが、弥陀の救いの対象なのです。
一切皆苦。苦しいのは、娑婆(堪忍土)にいるお互い当たり前、
苦しみ迷いを離れる力など端から持たないお互いであります。
肩肘張ったところでどうにもならないし、肩肘張らなくてもどうにもなりません。
どっちに転んでも、どうにもならん奴を捨ててはおかん、と誓った方がおられる。
私から見れば、縁もゆかりもない方、しかし、その方は、
私のことを我が子同然と言ってはばからない。それが阿弥陀仏でしょう。
自分の苦しみをなくすことばかりに心を砕き、
私のことを常に聞き、常に見、常に知り尽くし、心を砕かれている
阿弥陀仏に思いを寄せないなら、ただ苦しいだけなのは当たり前です。
上に申した通り、私たち凡夫には、苦を抜く能力など、端からないからです。


204 :神も仏も名無しさん:2007/11/02(金) 00:23:30 ID:wjafkeMY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

205 :7:2007/11/06(火) 10:29:37 ID:Hoy8EeOR
>>203さま、お忙しいところレス有難うございました。

阿弥陀仏に思いを寄せる・・・聞けば聞くほど仏説真だなぁ、となって、無常や罪悪を少しずつ知らされて、
後生の一大事が気になるようにはなったものの、必ず助けると仰って下さる阿弥陀仏と言われても
どうしても得体が知れないというか、木像や絵像、名号本尊は見ることは出来ても、
思いの馳せ方というものは、どういうことなのか分からないというのが正直なところです。
勝手に頭の中で想像した阿弥陀仏に向かっても間違っている気がしますし、
阿弥陀仏に思いを寄せる、これを意識すればするほど何というか・・・・大きな壁を感じます。
功徳のつまった南無阿弥陀仏、ただの六文字の漢字にしか見えないけれども、
一切経がそこに収まっているとなれば称えねばもったいない気がして称名念仏をする時もありますが、
口先だけの自分が嫌になってまいります。

206 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 00:04:09 ID:xbIYu+uT
浄土教=ゾロアスター教
無量寿経はゾロアスター教が国教(仏教も容認)のパルティアで書かれた偽経です
お上がゾロアスター厨なので気を使いトンデモ経典が生まれたと思われる
ちなみに安世高はパルティア人

                  ↓
<タジキスタン>仏教とゾロアスター教融合の仏像型発見
11月1日21時37分配信 毎日新聞

 7〜8世紀ごろに栄えた中央アジア・タジキスタン西端の都城跡を発掘調査していた龍谷大の蓮池利隆・客員研究員(西域仏教文化)が1日、
ゾロアスター教(拝火教)を象徴する拝火壇を描いた当時の仏像の型を発掘したと発表した。
蓮池研究員は「仏教とゾロアスター教の融合を確認でき、仏教の源流の一つを示す貴重な資料」としている。
 現地の国立歴史考古民族博物館と合同で9月、首都ドゥシャンベの南西70キロにあるカレ・コファルニホン遺跡を調査。
地下約3メートルから発見された工房とみられる施設の跡から、粘土を詰めて仏像の塑像を作るための型(高さ約10センチ)が出土した。
仏の足もとにはゾロアスター教で神聖な火をたく拝火壇が描かれ、仏が手を差し伸べている。


207 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 00:42:57 ID:DkSPXjYk
>205
私の言い方が悪かったかもしれません。ごめんなさい。
阿弥陀仏が得体が知れないと言うのは、その通りでしょうね。
不可称不可説不可思議なんですから。凡夫に得体の知れないのは当然です。
ブッダとは、いかなるものを指すのか、阿弥陀仏もブッダなわけですから、
ブッダの意志について、伺ってみては如何でしょう?
弥陀の本願に通じることかと思います。

208 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 15:41:18 ID:7eT7e9Ke
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

209 :774:2007/11/07(水) 17:49:49 ID:DkSPXjYk
>205
毎度、お返事が遅れてすみません。阿弥陀如来の誓願の対象は何でしょう?
美しい心の持ち主ならば救うとのお約束でしょうか?
波羅蜜を修している者ならば救うとのお約束でしょうか?
口先だけで自分でも自分のことが嫌になるような私を必ず浄土に参らせる、
必ず一切の智恵と真実の慈悲が備わった仏にする、
この誓いは私が立てたものじゃないし、私が望んだわけでもない。
百遍聞こうが、千遍聞こうが、破られない、色褪せない、一切知者たる仏のお約束です。
あなたがどう思おうが、私がどう思おうが、そのお約束だけは変わらない、即ち真実だと言うことです。


210 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 18:27:13 ID:7eT7e9Ke
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

211 :神も仏も名無しさん:2007/11/09(金) 00:35:03 ID:2Q0wjLqJ
たまには( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \の相手してやってよ

212 :神も仏も名無しさん:2007/11/12(月) 09:06:34 ID:i1PPV0Jp
ふぅ〜分かんねぇ〜!!!!!!

213 :神も仏も名無しさん:2007/11/13(火) 04:50:27 ID:IsmtwGK8
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

214 :神も仏も名無しさん:2007/11/13(火) 04:51:33 ID:APIDVhPt
dd

215 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 09:05:00 ID:tXiP/qnr
おいおい、せっかく良スレ見つけたと思ったのに、途中で妙好人の書き込みが無くなってるやないか(T_T)

妙好人は18願を聞け聞けと言ってるけど、それ以外の求道のアドバイスが特にありがたかったなぁ。
かなり自分の愚かさが見えてきた感じするわ。

それにしても774っちゅうやつは・・・聞け聞けといってるし、その内容は18願やからええんやけど、774の書き込みぜんぜん求道の参考にならへんw
なんで妙好人に「人にアドバイスするな」なんてイチャモンつけてんねん?
蓮如かて覚如かて、それどころか親鸞さえ和讃やらで求道上のアドバイスやってんねんで?

あーもう・・・妙好人は774のストーカーちっくな質問が嫌になったんやろかなぁ。
ほんま迷惑やわ。

だれかこの妙好人が書き込んでるスレ知らへんか?

216 :774:2007/11/14(水) 20:34:25 ID:hMdMtIt/
>225
親鸞聖人は自らの歩んだ道を求道と言われたことがあったでしょうか?
求道という一見殊勝な言葉の裏に、
自我肯定の煩悩が潜んでいることも見過ごすことはできないでしょう。
聖者ならば、求道も間違いは少ないでしょう。
右も左も、自身の立場もわからぬ、
それどころか、わからぬくせに、わかっていると信じて疑わない
我らのごときいたずらものの求道に、一体何の価値があるのでしょうか。
真実心を成就なされた仏の求道ならば、値千金の価値あるものと言えましょうが。
ここは思案あるべきかと思います。

217 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 22:13:24 ID:tXiP/qnr
うわー、こんな過疎ったスレに当日カキコしてくるなんて・・・どんだけヒマやねん。
妙好人についての情報提供かと思って一瞬よろこんでもーたやないかw

それにしても774はキモいやっちゃなあ、粘着質すぎる感じやで?
ユーモアで切り返すこともせーへんで自分の言い分ばっか言うて・・・、お前モテへんやろw


それに、求道っちゅう言葉があかんのなら、曾我量深にも信楽峻麿にも澤木興道にも秋月龍aにも上田義文にも松原致遠にも桜井鎔俊にも抗議文を送らなあかんで?
妙好人にあんだけイチャモンつけたんやから、当然もう全員に抗議文送ってるんやろうな?

それにしても、こういう相手の話聞かんタイプのやつは疲れるなぁ。相手にできへんわ。
ああ、あの妙好人も774の質問にえらい誠実に答えてたけど、774は全く相手の話聞いてなかったな。

そーいや7ってやつも書き込まんよーになってもーてんな。774って「アドバイスするな」っちゅうわりに、一番エラそうやしなw
7も、774のヘタクソなアドバイスに嫌気がさしたんとちゃうかw

あーあ、774がうざそうやし、おれもう書き込みせえへんけど、だれか妙好人のこと知ってたら、教えてな。






あ、最後に大事なこと書いとこ。




さあ、ではみなさんご注目ください!
774さんが負け犬の遠吠えを粘着テイストで書き込みなされますw

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

218 ::2007/11/14(水) 22:40:57 ID:ZEIw6nM2
オメコ!\!
ドピュピュッ!!

ごめん!オラ774じゃね〜ぞ!クンニ好きな…グヘヘ!

さーてと…浄土真宗では、仏性についてはどうとらえてるのですか?

私の意見は、仏性が有るとか無いとか、
どう解釈しようとも、私は仏になれず、
ただ本願力によって往生する、だから、
仏性なんてどうでもいい!という意見だぞ!

オッス!オラクンニ好きだぞ!

219 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 22:47:34 ID:ZEIw6nM2
オッス!オラクンニ好きだぞ!

オラはどんなクンニ好きで、仏になんかなりたくもネェ!
と思ってるぞ!

そんなオラに、阿弥陀さんは「必ず仏にする」
と言ってるそうだぞ!それが南無阿弥陀仏だそうだぞ!

でもオラクンニ好きだぞ!グヘヘ!

220 :774:2007/11/14(水) 23:04:00 ID:hMdMtIt/
>217
誰が何と言われましても、求道という言葉を安易にもちいることには賛成しかねます。
理由としては、親鸞聖人が用いていない事が第一。
第二に、その語句は、果たしてお聖教の何処に順ずるのか不明瞭なまま、
使用するのは戯言をまねくことになる、と言うことです。
江戸末期、明治時代、真宗において、求道という概念が、
お聖教の根拠も規定しないまま、用いられてきた感があります。
曽我先生が何を求道と言われたのか、諸師が何を求道と言われたのか、
探っていくべきと思いました。
感情の起伏はお互いさま。この煩悩のままに、必ず救うと言われる
ご誓約がありがたいですね。南無阿弥陀仏

221 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 23:30:25 ID:tiOTlKiQ
求道自体は結果論だと思うんだ。

222 :穴秋 陰 座 遊毛絵:2007/11/15(木) 12:38:54 ID:BrS/4xSM
求道も全て阿弥陀様のお働きによりました、っつうのなら問題ないんではないかい?

要するに、こちらから仏になる要因など全く無いとしてれば問題ないんだよ。
みんな阿弥陀様のおてまわしって言ってりゃそれでいいのよ。
求道の文字を使う使わないなんてのは、枝葉の問題だと思うよW

223 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 13:27:37 ID:gUnPBlKc
>222

求道=阿弥陀様のお働き?

>> 215は、こういう意味になるのか

 774の書き込みぜんぜん阿弥陀様のおてまわし
にならへんw それどころか親鸞さえ和讃やらで阿弥
陀様のおてまわし上のアドバイスやってんねんで?

 774が、阿弥陀様のおてまわしをするとなると、774は、
阿弥陀様のお使い。? 観音菩薩か勢至菩薩の化身?。
親鸞さえと言っているから、親鸞聖人の生まれ変わり以
上の聖者だと思ったか?。

 面白い奴だなぁ。


224 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 14:53:12 ID:cAqNMfA6
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

225 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 16:14:56 ID:BrS/4xSM
>>223

要するにさ、求道ってのは、突き詰めたら、仏になりたい、悟りを求める事だろ。
そんなもん、俺の中から湧いては来ない。
もし、湧いてきたなら、それは阿弥陀様のご本願が、
俺に働きかけたから、そういう思いが湧いて来たんだろう、
と俺は思う。

親鸞さんが化身土文類で、三願転入を言われてるのは、
自分の比叡山での修行時代も、みな阿弥陀様のご本願の
お導きだったと言われてるんだと俺はとらえてるよ〜ん。

226 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 16:36:00 ID:BrS/4xSM
ご本願に転入させるための、ご本願のお導きであり、おてまわしって事だよ〜ん。

227 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 04:50:34 ID:tjZ+nKX9
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

228 :7:2007/11/16(金) 09:06:42 ID:OcrScTUK
おひさ。たまには見てます。774さんは勘違いしやすい部分への指摘が厳しい方だとお見受けします。感謝してます。

確かに私という泥凡夫の、どこをとらえて求道なんて言えるでしょうか。そう考えると、法座など、何しに来たのか聞かれると言葉に詰まります。
信心決定しにきました。ハァ?!後生の一大事を解決しにきました。後生とも一大事とも思っていないでしょ?返す言葉もナッシング。
ただ、なんとなく来ました。カエレ。いったいオイラ、どうすりゃいいの。

229 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 10:55:00 ID:67eKco7K
ただ、ご聴聞に参りました、と言えばいいでしょ。
そんな禅問答みたいな事言う浄土真宗の住職なんていないよ。
ようこそようこそ、ようお参り下さいました〜ってお迎えして頂けるよ。

230 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 11:48:41 ID:VAtCvDBw
>228
>法座など、何しに来たのか聞かれると言葉に詰まります。

 おのおの十余か国の境を越えて、身命を顧みずして、尋
ね来たらしめ給う御志し、一重に往生極楽の道を問い聞か
んがためなり。

 求道は何か。目的は何か。原点は決して見失いたくないものだ。

231 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 11:49:42 ID:VAtCvDBw
>230
   あげ


232 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 12:36:03 ID:VAtCvDBw
 追加したくなった。

 往生極楽の道とは何か。
「出世間道」と名づく。「上」は、妙なるがゆえに、名づけて「上」とす。「入」は、
正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入る。

 親鸞とは決別し、独自の道を歩む人には求道などはありえない。

233 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 21:54:12 ID:VAtCvDBw
 一盲(774)、衆盲(7,221,222,229)を率いて火抗に墜つ

 教化するひと(774)、(求道して)まず信心をよく決定して、その
うえにて聖教をよみ語らば、聞く人(7,221,222,229)も信をとるべし。

234 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 22:21:00 ID:HCMID/UF
>>230-233
渡海のおっさんは二度と来るな!
スレが汚れるから。

235 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 02:56:23 ID:uVUe7hyN
なんやこれ、おもろいな。娑婆で十八願を聞ける人ってどんだけおれんろな。
真の念仏行者は往相還相の利益を得て衆生済度が使命になるのだが、
娑婆で人に聞かすのはとっても難しいです。皆さんみたいな人と
出会い教えてあげたいです。なかには真剣に考えておられる方もいるの
でしょうから、ただここでは限界がありますが。全国に地蔵さんや観音など
多くの菩薩方が像に宿ってます、手を合わせご縁を願ってください。
決して虚しい事ではありません。私は十一面観音像の上にある阿弥陀如来
は観音様が我に頼まず弥陀に頼めという云われと聞いてます。

236 :毎度 難:2007/11/17(土) 06:37:04 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

237 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 10:17:46 ID:VdHHLuUW
 ややしつこいようだが、求道という姿勢は親鸞仏教で重要な概念だからもう少し書きたくなった。
 求道と言われて聖教の根拠を示せと言われれば、最右翼に掲げる言葉があった。歎異抄は最右
翼から二番目だろう。一番は次の言葉だ。

 穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣
を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ(序文)。

 求道とは、「最勝の直道に帰する」ということだ。最勝の直道に帰するとはどういうことか。
「専らこの行に奉え、ただこの信を崇める」ということだ。

 専らとは、専一にと言う意味だ。他を捨てて、一つだけを選び、それを実践するということだ。
歎異抄第二章のただ念仏とは、専一に念仏を選び、専一に念仏を称えていくということである。
「専ら・ただ・専一」とは、二ではないということだ。三でもない。実践という点では、一以外
の他を捨てるという意味もある。

 「信を崇める」とはどういうことか。「真宗の教行証を敬信する(序文)」という意味だ。真宗と何か。
念仏成仏これ真宗(行の巻)。
 信を崇める敬信とは、念仏成仏の教えと、教えのままに専一の念仏成仏の教えを実践することと、
念仏成仏を具現するということ。この三者を一体にして尊いもの、大事なものと受けるということだ。

 信の対象は、教と行と証である。教と行と証であるというとは、阿弥陀仏ではないということ
も大事なことだ。阿弥陀仏を信じるのではなく、教・行・証を敬信する。
 これが最勝の直道に帰するということであり、求道ということだ。往生極楽の道だ。

 774さんはよく味わってみるといいだろう。229さんはお寺さんのようだ。求道とは禅問答ではな
い。「お前は何しに来た?」と言えるような自信のある坊さんになるといいだろう。

238 : ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/11/17(土) 10:33:12 ID:baiHMNjU
     /´" ̄⌒⌒ヽ,,〜
    /     ∧    \〜
   彳丿; /,,,,,,,,\ u lヽ
   入丿 -◎─◎- ;ヽミ.  ・・・っと
    | u:.:: (●:.:.●) u:.::|
    |  :∴) 3 (∴.:: |
    ヽ、   ,___,. u . ノ、
     ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ
   /      | ̄|´     \
  (      .ri_l      ヽ
   \   >!、_彡
     \   /

239 :毎度 難:2007/11/17(土) 11:08:50 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

240 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 12:22:29 ID:uVUe7hyN
え〜な良レスに戻ってま!妙好人さんや関西弁の方もどってきて、渡海 難って
頭悪そうな方ですね、本だけの知識みたいに感じますが、阿弥陀仏あっての
教・行・信でしょうが、信の対象は間違いなく阿弥陀如来ですよ。
だいたい阿弥陀仏と教・行・信を分けてどっちが信の対象というわけの
わからん解釈する方って現代風なんか?

241 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 12:50:47 ID:nlh96azf
>>240
キチガイ渡海難は無視すればいいんだよ。

242 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:25:10 ID:VdHHLuUW
>240
> だいたい阿弥陀仏と教・行・信を分けてどっちが信の対象というわけの
> わからん解釈する方って現代風なんか?

247 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:2007/10/15(月) 10:52:40 ID:Y1IVr1Lo
 のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて写させ
られて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥
陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ候なり(蓮如聞き書
き)。

 蓮如上人は言われた。南无という字は親鸞聖人の流派だけが使用している。普通、阿弥陀仏の
号(名前)は阿弥陀仏である。名号を掛け軸に書いて飾る場合、阿弥陀仏と書く。しかし、親鸞
聖人の流派だけは南無阿弥陀仏と書いて飾る。蓮如上人は南無阿弥陀仏と名号を金泥で書写し、
それをお座敷に飾った。そしてこのように言った。
 善導大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。法然上人はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。曇鸞大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。お釈迦様はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。
 不可思議光仏・無碍光仏、いずれも「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と称賛するための徳号(名前
〔道具〕)である。阿弥陀仏〔道具〕が尊いのではない。道具が示す南無阿弥陀仏が尊いのだ。
だから、もっとも尊い南無阿弥陀仏を掛け軸に書いて飾るのだ。

243 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:26:01 ID:VdHHLuUW
248 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:2007/10/15(月) 10:54:10 ID:Y1IVr1Lo
 無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形ましますと
示すときには、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞
き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞 末燈鈔)。

 無上仏は形而下(有形)の存在ではない。形而上(無形)の存在である。架空である。観念で
ある。形而下の存在ではないからこそ、自然という概念が導かれてくる。形があれば無上涅槃と
は言わない。観念的・抽象的あり方を明らかにするため、一番最初に比叡山で阿弥陀仏というも
のの講義を受けたとき、阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための資料であり。道具
である。方法論であると教わりました。

244 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:35:34 ID:VdHHLuUW
 桃太郎さんを信じることが大事なんじゃないんだ。桃太郎さんは人々に、悪いことをし
てはいけない。いいことをしなさいという、人の道を教えるための資料なんだ。桃太郎さ
んは架空なんだ。道具なんだ。

 正しいことをしようという教え、それに従って正しいことを行うという行動、正しいこ
とを行って得られる幸せ。この三つが大事なんだ。桃太郎さんを信じるということは意味
がない。教と行と証とを心に秘めていくということが大事なんだ。

 桃太郎さんと、桃太郎さんの教・行・証とはしっかり分けて考えていこう。

245 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:39:40 ID:VdHHLuUW
 数日間カキコ不能の予定。

246 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 18:11:39 ID:uVUe7hyN
240です。基地外といわれる所以がわかりました、まさに信に迷った方が
おっしゃる言い方ですね、そういった難しい解釈をしなくとも名号に教・行・信
がこめられているのを解っているからこそ南無阿弥陀仏だけでいいんです。
ゆえに信の対象は阿弥陀仏でしょうが、そんな学者みたいな解釈は必要ない
のです、渡海 難のいいたい事もわかるけど、浄土往生にまったく役に
たちませんよそんな知識は。念仏行者(信を得た人)は信を得た後に自ずと
十八願の云われをしみじみと味わう方がほとんどです、ですからよき人(行者)
に誘われてなにもしらずとも十八願の御座にあわせていただく事こそもっとも
大事な事となるのです。




247 :サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2007/11/17(土) 18:19:53 ID:W4YsgMHu
つまり
キチンと信心しなきゃ救われないんですね

ていうか信が重要ですか?
上の空のお念仏は駄目ですよね?

248 :月見うどん ◆GQVAicDWLY :2007/11/17(土) 19:02:49 ID:PWhmumPN
その信すら与えられるもので、自力で得るものではない。

徹底的な他力。

249 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 19:18:15 ID:xLuhdI3+
勝利を掴むには他力本願じゃダメなんです。自力本願でないと。

250 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 20:05:07 ID:pdeHetXB
>>247
だめです。
でも信じるためにこちらから能動的に動かないのはもっとダメです。

251 :毎度 おおきに:2007/11/17(土) 20:19:57 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

252 :サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2007/11/17(土) 20:23:01 ID:W4YsgMHu
>>250
そうですか
決して受動ではないのですね

253 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 21:58:13 ID:Igb5j/EM
勝利ってなに?現世利益?

254 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 22:51:31 ID:XJZ+HiNZ
>>253うん

255 :7:2007/11/18(日) 09:31:11 ID:CXciZxWU
俺、信心決定したら、この世の苦しみが楽になるかと思ったけど、どうもそうでは無いんだね。
極楽浄土、そんな清浄な世界を求める心なんて俺にはありゃしないが、どうすりゃいいんだ。
ただ、苦しみに満ちたこの世が嫌なだけ。ただ、この世に刹那の快楽を求めてそれを繰り返すだけ。
迷い惑うて、何かを信じる心もころころ変わるだけ。真宗にこそ解決の道がある、と思ったけれど、
それがただの早合点に過ぎないかも知れないと思えば、ますます不信が深まるばかり。
仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。何を、どのように、求めていくべきか。
本当に求まるのか。今までの思いは一時の熱病がごとく冷めてしまい、ただ呆然とする自分がいる。
虚しいやら、切ないやら。欲しいのは、現世利益。目先の快楽。この今という一瞬の充実、満たされた思いが欲しい。
死ぬとどうなるか、サッパリ分からない。自分が何に迷うているのかも、自分の本心も、もう分からない。
口先ばかりだ。先延ばしとその場しのぎがあるだけだ。頭の中の説法道場で、思考遊戯を繰り返す。
信心決定?南無阿弥陀仏?聞いても、覚えても、思っても、考えても、どんどん遠のいていく気がする。
やりきれない。

256 :7:2007/11/18(日) 10:39:05 ID:CXciZxWU
信心決定した世界。この世の苦しみは、因果の道理。痛みや悲しみが無くなる訳がないことは、分かる。
しかし、平気になるんじゃないか、とか、思ってしまう。
獲信者と断言される方、念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。
しかし、話をすると、何だか悔しいやら腹が立つやら。その心がどんな精神的世界に住み、どんな境地にあるのか、サッパリ分からない。
何を言っても間違っている気がして、心を閉ざしていく自分が居る。そして、居場所はない。
もとより信心のあるなし、三業では判断できないとなれば、自身で己の心を見ることも、三業による判断に頼りすがっているわけだ。
虚しい。俺は未信の者だと思う。これは自身の三業による判断だ。どうしてもそうなる。大バカモノ、言われてケッコウ。
俺は本当に求道する気があるのか?何を求め、何を道だと思っているのか。全て振り出し。振り出しに戻れ、のコマに停まってばかり。

257 :774:2007/11/18(日) 12:07:33 ID:79+gDoF3
>256
時間ができたので、少しだけ。凡夫の精神的境地など、真宗は相手にしません。
阿弥陀如来が必ずあなたを苦しみ迷いなき浄土に参らせる、
それだけです。あなたが参りたいと言おうが、参りたくないと言おうが、
有無も言わせません。阿弥陀如来は必ずあなたを一切の苦悩なき浄土に参らせる。
一切の苦悩を引き受ける仏となさしめる。真の智恵と慈悲に基づく喜びを獲させる。
間違いの欠片さえない、一切智者のお約束です。凡夫の約束とは雲泥の差ではありませんか。
聞いて間違いなく決定するのではなく、間違いない決定を聞く、それがご当流です。


258 :7:2007/11/18(日) 12:33:05 ID:CXciZxWU
>>774様 レス有難うございます。
 その、聞くということも分かりません。まさか十劫安心の方ではないでしょう。
 確かに阿弥陀仏の本願は、全ての人を救うお約束だと聞いております。
 しかし、救われたと喜ぶ人、求まらないと言って悩む人、全ての人が救われていないのが現実じゃないですか?
 そりゃ、宿善が違うから、と言われたらそれまでですが。
 自分は、全然、聞けない。何度も聞こうとする、聞いて解決しようとする、これは全て自力ですか。
 ならば、無為に過ごすべきなんでしょうか?仏法を聞きに言ったりする自分も如来のお手回しと聞きますが、この心には、他力の他の字も見当たらないのです。

 それに、信心決定後に、あの頃信心獲得したいと言っていたのは全く口先だけだった、と振り返る方がありましたが、
 そんなこと、決定後だからこそ言えることですよね?今何を言っても口先だけになるから、何も言いたくない、と諦めるのとは違うんですよね?
 今は、必死に求めよと?

259 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 13:30:08 ID:uB5M0xmi
なかなか深い対話だと思う

260 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 14:37:45 ID:vLRf/GaX
>259
 外に言うことはないの?


261 :774:2007/11/18(日) 14:53:24 ID:79+gDoF3
>258
必死になった人が聞こえるように、南無阿弥陀仏は仕上げられているのでしょうか。
一切智を獲、自利利他が完成している仏の立場から見られたら、私ども凡夫はどのように写るのでしょう。
仏は、私をどのように見、利他の立場から、救済するにはどのようにしなければならないと
思惟されたのか?そこを問いたずねてみたらいかがでしょうか。
試みに如来の立場から、考えてみたら、ということです。
次に、あなたの抱いている十劫安心の定義とは何ですか?前にも話にあがり、
説明させていただいた覚えがあるのですが。私の解釈が間違っているのならば、
あなたが定義している十劫安心の考え方とは如何なるものなのか教えて下さい。


262 :774:2007/11/18(日) 15:06:57 ID:79+gDoF3
南無阿弥陀仏
私を離れた如来なし
如来を離れた私なし
響流十方大正覚
二利円満の不思議哉
こういう如来になろうというのが本願であり、また本願力である
その如来様が南無阿弥陀仏である
仏法は易中の易、こんな易いものであったのか
知解分別のことばを聞くな、他の人のありがたいすがたを見るな
妄念は凡夫の地体なり
妄念の外に別に心は無きなり
自分の心は刹那刹那に変化する、流水に描いた画のようなものである
どんな心になったら助かるのか
なっても、また変わるぞよ
どんな心持ちになりたいと思うておるか
なっても、地獄へ落ちるぞよ
どんな心も、如何なる心持ちもあてにするな
凡夫というものは箸にも棒にもかからぬものである
親様がなぁ あればこそ
稲垣瑞劔師『大信海』


263 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:28:50 ID:2SWBM4fN
7サンへ、その、聞くということも分かりません。当然だとおもいます。
それは言うにいえぬ訳があるからです。あなたがお会いした獲信者と断言される方、
念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。 といいますが本当に
信を得た方はそのように言いませんよ。なぜなら言ってはいけないからです。また
このように言うと外道だと非難する方がわいて出てくるのを承知で言っていますよ。
故にみなさんは迷うのです、また誤解されそうな事をいいますが、現在の信宗の坊さん
に知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
いないのです、親鸞聖人より平民に分授されているからです、ただし蓮如さんは例外ですが
このことは本当はこのようなところに書いてはいけないのですが、7さんのような方がいる
からつい我慢できず書き込みました。このことをどのように捉えるかはみなさんの
自由です、わたしがいえることは例を挙げると近くの地蔵さんや観音様にどうか十八願のご縁
を授かるようにと手を合わせてください、断言します必ず虚しいことではありません。
たとえ娑婆でご縁に会うこと事がなくても心から願うような方は死後、生前お参りした如来・菩薩
方は放っておきませんから虚しい事では決してありません。このことに関してからかう
ような方は相手にできませんので勘弁してください。

264 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:53:51 ID:rBbn2vW1
親の大恩十種を忘れないようにしましょう。

仏教では殺るよりも、劣らぬものは思う罪といわれ、心で殺すとは、ひとつ屋根の下に暮らしていながら、ろくに口も聞かず、食事も別々に取り、呼ばれても聞こえないふりをして、親を邪魔者扱いするのは、心で親を殺しているのです。



265 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:57:50 ID:uZA5LYzV
子供作る奴が一番子供の事を考えていない!11
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1184560140/

266 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 17:40:25 ID:vLRf/GaX
>264
道徳の押し付け・売り

267 :774:2007/11/18(日) 18:21:06 ID:79+gDoF3
>263
土蔵秘事系ですね。未だに現存しているのでしょうか?
非常に興味深いです。善知識を特定の人物と取り、その資格が相続されていくという宗旨ですね。
問題点は、善知識の定義にお聖教上の根拠がない。
お聖教の一部だけを取り出して、
他のお聖教との比較検討をしない(断章取義)ため、矛盾が発生する。
真宗は秘密主義ではないのに、秘法が存するかの如く説く。
江戸時代、寺社奉行の摘発対象とされましたが、この情報社会に、
現存しているというのは、ある意味、すごいことだと思います。
人間の欲求と、それに基づく行動は、昔も今も大差なく、
現代人が精神的に成長してきたかと言えば、そんなことはないと思い知らされますね。
智恵を重視してきた仏教の伝統と言うのも、実に大切なことだった、
とも思いました。

268 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 18:28:34 ID:UWupbbv2
>>266=260=渡海難

お前も押し売りと同じだけどな

269 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 18:50:08 ID:TQ0arCwU
熱心な人が多いですね。

270 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 19:47:35 ID:rBbn2vW1
>>266

親を大切にしないと因果応報で自分に帰ってきます。



271 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 22:37:22 ID:6mAdUDHC
南無は帰命、帰命の帰は至る、命は召す、と親鸞
は釈しているから、阿弥陀仏=無量寿光
の仏に召し至らせる意味となる。

南無阿弥陀仏の名号は、阿弥陀仏が衆生
の為に姿を変えて現れた方便法身だから、
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に召し至らせる
仏とも言える。

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が姿を変えたもの
だから、南無阿弥陀仏はそのまま無量光寿
の徳を持つ。
阿弥陀仏はまた、浄土全体が阿弥陀仏の
身体であるから、南無阿弥陀仏はそのまま
無量光明土とつながる光明の一筋とも言える。

南無阿弥陀仏の名号以外に、浄土真宗の信心は無い。

272 :7:2007/11/18(日) 23:48:26 ID:uCCH4rra
土蔵秘事はご勘弁願います。オープンな姿勢でないと自分のような臆病な人間は近寄ることすら出来ません。

十劫安心、僕もよくは知りませんが、阿弥陀仏が五劫思惟された本願は成就されてから既に十劫という時間が経過したと聞いていますが、
その時に、既に全ての人が救われた、と解釈する安心でしょうか。この世でハッキリするも何も、もう既に救われていると。
そういう考え方なのかなぁ、と。つまり、信の一念を無視しているんじゃないか、と。

>>774様、262のレスに何とも心が惹かれます。稲垣瑞劔師『大信海』、自分が今あてにしようとしているものをバッサリバッサリ。
 どうしても救いの構造、システムや理論ばかりが気にかかり、他人が喜んでいる姿ばかりが気にかかり、自身の妄念を嫌い無くそうとし、
どんな心になったら助かるのかと思案し、どんな心境が訪れたら信心決定かと想像するばかり。
 今の自分の姿です。箸にも棒にもかからない・・・このあたりまだ自分は懲りていないというか読み流す余裕があるようです。ため息。

273 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:51:15 ID:JK9Ue91K
>>246
 渡海難です。240が基地外といわれる所以がよくわかりました。まさに信に迷った方がおっしゃ
る言い方ですね。

 桃太郎さんが架空の存在ですって?。そう言った学者みたいな難しい解釈をしなくても、南無桃太
郎さんというお名号には、正しいことをしなさいという教・正しいことをするという行為・正しいこ
とを信じる信の三つが込められているんですよ。そういうことが分かっているからこそ、「南無桃太
郎さん」だけでいいんですよ。
 ゆえに、信の対象は桃太郎さんでしょうが。桃太郎さんは架空だとか、桃太郎さんと、桃太郎さん
の教・行・証とを分けなさいなどと、そんな学者みたいな解釈は、私たちには必要がないのです。
 桃太郎さんは宇宙の中心なんです。桃太郎さん天国に実在する永遠の命です。

 渡海難がいいたいことも分かるけど、桃太郎さん天国に行きたいなら、渡海難がいうようなことは
全く役に立ちませんよ。桃太郎さんは架空の存在だとか、桃太郎さんと、桃太郎さんの教・行・証と
を分けなさいなどとか、そんな知識は全く役に立ちません。
 正しいことをする人(正しいことをしなければいけないという思いを持った人)は、そういう思い
を持った後に、自ずと桃太郎さんの御本願の云われをしみじみと味わう方がほとんどです。
 桃太郎さんは、おじいさんと、おばあさんに御本願を立ててくださいました。自分が大きくなった
ら、必ず鬼退治に行こう。鬼をこの世から無くそう。鬼がこの世にいる限り、自分は大きくならない
うようにしよう。桃太郎さんはそう御本願を立ててくださいました。そして立派に鬼退治をしてくだ
さいました。
 ですから、講談社など、絵本を作ってくれているよき人(正しい人)に誘われて、何もしらずとも、
「鬼退治をしてくるぞ」という桃太郎さんの御本願のお話の場にあわせていただく事こそ、もっとも
大事なことなのです。

 ああ〜、桃太郎さん桃太郎さん。お腰に付けた吉備団子、一つわたしに下さいな。なんという素晴
らしい心でしょうか。

274 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:56:58 ID:JK9Ue91K
>>247
> 上の空のお念仏は駄目ですよね?

 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

 「十方微塵世界」 十方とは、東・西・南・北・北東・北西・南西・南東・上・下をいう。微塵世
界とは、小さな塵のように無数にある世界を云う。
 パン屋さんの世界でも、おそば屋さんの世界でも、警備員さんの世界でも、お巡りさんの世界でも
いいんだ。無数にある様々な世界にいる念仏の衆生をしっかり見守り、選び取って下さる。決して捨
てることはない。そういう意思と働きとを阿弥陀と名付けてお呼びする。
 その中には、信心が無くて称えている人もいる。上の空で念仏を称えている人もいる。そういう人
全てを、摂取して捨てない。それが阿弥陀仏なんです。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
 定善自力の念仏でもいい。散善自力の念仏でもいいんだ。定善自力はだめ、散善自力の念仏はだめ、
念仏を疑ってはだめ、などとそんなことを最初から言えば、だれも念仏などは称えられないだろう。
 最初はだれでも、おそるおそる、こわごわ、心配しながら称えていくんだ。果遂のちかい、つまり
結果としては必ず遂行するぞ。結果を見てくれ。結果としては必ず救っているぞという、仏の誓いに
帰する。つまりそれを信頼し、定善自力の念仏、散善自力の念仏を称えていってごらん。そうすれば、
誰からも教えられなくても、自然に、最終目的地である真如の世界に入っていくだろう。
 定善自力の念仏・散善自力の念仏、ここが真門である。真実に至る門である。入口である。この門
を進めば、やがて真如の門つまり紛れもない真実の世界に至る。

 安楽浄土をねがいつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがいて 辺地懈慢にとまるなり

275 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:57:57 ID:JK9Ue91K
 ところが、安楽浄土を願いつつ、真門に入って最終的には真如の門を求めつつ、それでもなかなか
他力の信が得られない人がいる。念仏だけでいい。これだけでいいという安心感が得られない。念仏
だけでいいという教えに、全幅の信頼を寄せられない。そういう人がいる。われわれの次元を越えた
先人の深い考えに疑いをもつ。こういう人は、先人の心と意識にズレがある。考え方にズレがある。
つまり、考える必要がないいらんことをいろいろ考え、先人と考えが噛み合わない。つまり、辺地懈
慢にとまる。

 仏智の不思議をうたがいて 自力の称念このむゆえ 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずる心なし

 念仏だけでいいんだというのは、先人の深い深い考えによっている。その深い深い考えがなかなか
分からず、浅はかな自分の考えで即断をし、念仏をしながら、いらんことに色々と気を回す。念仏に
腹が据わらない。こういう人には、深い考えを持ってくれた先人に対し、感謝の心も涌いてこない。

 自力称名の人はみな 如来の本願信ぜねば 疑う罪の深きゆえ 七宝の獄にぞいましむる

 ああでもない。こうでもない。様々に自分の浅はかな考えをめぐらし、ああではいかん、こうでは
いかんと、分別する。念仏を称えたり、称えなかったり。先人の深い深い考えをすっぽかし、浅はか
な自分のかんがえを優先する。こういう人は、「念仏する人は全て救うぞ」と言っている先人の深い
心がなかなか理解できない。結局自縄自縛の世界に止まってしまう。

 仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を 修して浄土を願うをば 胎生と言うと説きたまう

 ああでもない。こうでもない。様々に自分の浅はかな考えをめぐらし、ああではいかん、こうでは
いかん。ああなりたい、こうなりたいと、思いながら、念仏を称えたり、称えなかったり。そういう
人は、自分の殻を破れないで胎生という子宮の世界から生まれ出ることができないでいる。

276 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 11:07:54 ID:JK9Ue91K
 それでは、そんな念仏はではだめなのか。定善自力の念仏ではだめなのか。散善自力の念仏ではだ
めなのか。そんなことはないんだ。初心者は、みんなそこから始まるんだ。

 辺地の往生を遂ぐる人、ついには地獄に堕つべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。

 辺地の往生はだめ。胎生だめ。七宝の獄はだめ、そんなとこに行けば、やがて地獄に堕ちるぞとい
う人がいる。それはとんでもないことだ。辺地の往生すれば、やがて地獄に堕ちるというなら、そん
なことが書いてある証文を見せて貰おうか。

 辺地の往生しかできない人がいる。胎生しかできないひとがいる。七宝の獄にしか至れないひとが
いる。そういう人が摂取から漏れるなどと言うことは決してないんだ。

辺地に生じて、疑いの罪を償いて後、報土の悟りを開くとこそ、承り候え。

 辺地の往生しかできない人がいる。胎生しかできないひとがいる。そういうひとはいったん辺地に
往生し、つまり先人の価値観とズレた価値観世界に往生し、やがてその中でずれた価値観が是正され
ていく。先人と同一の価値観世界に入っていくだろう。

 いきなり、先人の深い価値観と一致する世界に至る人は非常に少ない。だからこそ、いったんは、
少々価値観がずれた世界にとりこみ、そこから徐々に変わっていく。
 価値観がずれた世界で、正しい世界をしっかり学んでいけば、おしえざれども真如の門に転入する。

 (価値観がずれた世界でいいから、いちど入ってみなさいなと、親鸞は)化土に多くすすめ入れら
れそうろう。定善自力の念仏でもいい。散善自力の念仏でもいいと、親鸞聖人が言っているのはそう
言う意味だ。辺地の往生をすれば、ついにむなしくなる。つまり、定散自力の念仏は全く意味がない
というのは、如来は嘘を言っていると吹聴しているのと同じ事である。

277 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 11:09:47 ID:JK9Ue91K
>>253 現世利益?
>>254 >>253うん

 必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。
 一つには冥衆護持の益、   二つには至徳具足の益、
 三つには転悪成善の益、   四つには諸仏護念の益、
 五つには諸仏称讃の益、   六つには心光常護の益、
 七つには心多歓喜の益、   八つには知恩報徳の益、
 九つには常行大悲の益、   十には正定聚に入る益なり。

現世利益和讃 (親鸞 作)  
 阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて  金光明の寿量品 説き置きたまえる御法なり
 山家の伝教大師は 国土人民を憐れみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏を称うべし
 一切の功徳に優れたる 南無阿弥陀仏を称うれば 三世の重障皆ながら 必ず転じて軽微なり
 南無阿弥陀仏を称うれば この世の利益際もなし 流転輪回の罪消えて 定業中夭除こりぬ
 南無阿弥陀仏を称うれば 梵王帝釈帰敬す 諸天善神悉く 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 四天大王諸共に 夜昼常に護りつつ 万の悪鬼を近付けず
 南無阿弥陀仏を称うれば 堅牢地祇は尊敬す 影と形とのごとくにて 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 難陀跋難大龍等 無量の龍神尊敬し 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官皆ともに 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 他化天の大魔王 釈迦牟尼仏の御前にて 護らんとこそ誓いしか

 現世利益には、信心がなければいかんとか、定善の念仏ではいかんとか、散善の念仏ではいか
んという条件は全くないことに気がついて欲しいものだ。

>> 256 以下のコメントは後日

278 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 12:34:26 ID:JK9Ue91K
>250
>でも信じるためにこちらから能動的に動かないのは
もっとダメです。

 定善自力の心、散善自力の心。そのこころでしっか
りと念仏を称えていく。そこが入口なんだから、真実
への門なんだ。
 安心して、安心して自力の心で称えていく。能動的に
称えていく。初心者はそのように腹を固めて進んでい
こう。そういうことですよね。

 そうすれば、信の方が後ろから息せき切って追いか
け来てくれる。向こうの方から追いかけて来るというの
が他力の働きだ。

 おしえざれども真如の門に転入する。

279 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 14:13:15 ID:SI051L29
ニート海難のせいでこのスレ終わったな

280 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 20:12:30 ID:JK9Ue91K
>>235
>真の念仏行者は往相還相の利益を得て衆生済度が使命になる
     はて?聞いたことがない? 衆生済度が使命になる?。仏の仕事を横取りするのか?

>全国に地蔵さんや観音など多くの菩薩方が像に宿ってます、手を合わせご縁を願ってください。
    石にお狐さんでも憑依しているのかな。夜中にコーン、コーンと鳴くお地蔵さんを見てみたい。


>私は十一面観音像の上にある阿弥陀如来は観音様が我に頼まず弥陀に頼めという云われと聞いてます。
     十一面観音像のてっぺんにある像は、阿弥陀如来なの?。知らなかったなぁ。

281 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 20:15:15 ID:I9St5+9r
>>280=渡海
名無しでカキコするなよ。他で自作自演やってるのか?

282 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 21:12:27 ID:13arZY1P
>>278
補足していただいて
ありがとうございます。

283 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 23:39:58 ID:xyGb6SqA
>>282
基地外オヤジに礼を言う必要なし。

284 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:07:56 ID:rutf5cal
>280
はて?聞いたことがない? 衆生済度が使命になる?。仏の仕事を横取りするのか?

 誤解があっては困るので、思い出した内に付け加えておこう。非常に大事なところだ。

 悪を好む人にも近づづき、善をせぬ人にも近づきなんどすることは、浄土に参りて後、
衆生利益に返りてこそ、さようの罪人にも親しみ近づくことは候え。それも、我が計らい
にはあらず。弥陀の誓いにより、かの御助けによりてこそ、思うさまの振る舞いも候らわ
んずれ。当時は、この身共の様にては、如何候うべからんと覚え候。

 今、多忙。 コメントは後日します。大事なところだ。

285 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/20(火) 15:08:46 ID:rutf5cal
>284
 ↑ は渡海難です。

286 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:31:07 ID:PNTsiOla
>>284-285
やっぱり>>280は渡海難だったか。
お前が来るだけでみんな迷惑するから二度と来ないでね。

287 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:49:29 ID:x86xbwBA
>>284
ようするにトウミには近づくなということか。
それは仏さまのお仕事だから。
仏さまもたいへんだにゃー

288 :774:2007/11/20(火) 18:27:16 ID:TD81HACt
>272
稲垣瑞劔師『大信海』のつづきです。
親というものはありがたいもので、
どんなことをしても憎んでは下さらぬ
よう捨てて下さらぬ
親様がなぁ、あればこそ
仏法の極意も、安心の奥義もこれ一つ
あとのことは言うも行うも妄念ばかり
自力の凡夫心である
南無阿弥陀仏という如来様は、私を心のうちに、身のうちに、腕の中に抱いていて下さっておる
これ以外の如来なく、南無阿弥陀仏もない
それで和讃に曰く
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
信じように力みを入れるな、はからうな
お助けに間違いないことをいただくばかりである


289 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 18:53:04 ID:aBL+3pOj
渡海難に「来るな」とまでは言わない。
突拍子もないことばかり言うが真宗や親鸞が大好きなことは確かだろうし。
でも渡海流仏教・真宗論の披露や自説への教導だったら親鸞質問箱スレやHPでやってほしいな。
ここは旧来からのの真宗教学に基づいた「妙好人」についてのスレと思うし。

290 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 22:24:12 ID:52z26b5h
我こそは!
みたいなのを我執と言うのでしょうか
我執の塊のような人ですね

291 :7:2007/11/20(火) 23:36:31 ID:Cbt7814z
信心獲得したら自分が我執の塊であることを知らされるわけだろ?
だから我執が無くなるとか、減るとか、慎むようになる、わけじゃなかろーに。

292 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:39:21 ID:OGm9BTha
>>255
>信心決定したら、この世の苦しみが楽になるかと思ったけど、どうもそうでは無いんだね。

 貴方が苦というのは、釈迦が言った苦集滅道の苦、四苦八苦の苦を言っているんだろうと思う
が、そこで釈迦が「苦」と定義したものと、貴方が「苦」と思うものとが一致しているかどうか
分からんよね。
 釈迦が「苦」と定義したものは仏道で「楽」になるだろうが、貴方がいま「苦」と思っている
ものが釈迦の言う苦と違っていれば、果たしてそれで解決するかどうか、それは分からん。
 釈迦には釈迦の専門がある。釈迦が専門家として一生を賭けた問題が、今の貴方の中で「苦」
という認識になっているのかどうか。恐らくそんな風にはなってないんじゃないか。


>極楽浄土、そんな清浄な世界を求める心なんて俺にはありゃしないが、どうすりゃいいんだ。

 求める心がないなら話は簡単だ。求めなければいいだけじゃないか。求める心が無いのに求め
なければならんとなれば、これは苦しみだ。求める心が無くて求めても解決はない。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しきことをもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし
(消息集)。

 浄土を求めよう。穢土を離れよう。親鸞が言っていたその本質は、この世の悪いことを捨て、
よりよいことをしていこうという提案に他ならない。ここをきちんと理解していく必要がある。
 悪いことをしてもいい。いいことをする必要がない。そんな風に誤解している人に対して親鸞
は言う。


293 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:41:45 ID:OGm9BTha
 凡夫なればとて、何事も思う様ならば、盗みをもし、人をも殺しなんどすべきかは。もと、盗
み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直し
てこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず
候。

 凡人なんだから、どんな悪い心でも起きてしまい、泥棒でも人殺しでもしてしまうものだ、と
いう人がいるが本当にそうなんだろうか。以前は平気で泥棒をしていた人が、極楽を願い、念仏
を称えるようになれば、歪んでいた心を反省し、立ち直っていくというのが普通だと思います。
もしその兆候もないよう人に、「悪いことをしてもいいんですよ。他力本願、悪人正機ですから
ね。私たちは浄土真宗です。救われるんですよ。お救いです。」「いいことをしたい?。それは
いけません。それはみな偽善です。偽善は自力です。それは他力の教えに反します」。そんなこ
とは決して言ってはいけない。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをしない。これが厭離穢土である。正しいことを選び、正し
いことを行っていく。これが欣求浄土である。親鸞はそういう。

 親鸞は、特別に難しいことを言っているわけではない。日頃、念仏を称えていても、他人に対
し良からぬことを行い、また良からぬことを言っていれば、それは穢土を離れようとしているこ
とでもなく、浄土を求めようとしていることでもない。正しいことをしよう、間違ったことはや
めよう。そう提案する中で、親鸞は一介の仏道者として一番いいものを一つ勧めてくれている、
それが念仏なんだ。
 念仏以外を全部捨てろと言っているわけではない。僕らにはすることが二つある。一つは危機
管理であり、もう一つは平常業務だ。親鸞は危機管理として念仏を勧めている。危機管理は、念
仏だけすればいいと言ってくれている。
 我々がしなければならないことは危機管理だけじゃない。それ以外に平常業務はたくさんある。
平常業務ではしなければならんことはたくさんある。親鸞は平常業務を捨てろと言っているんじ
ゃない。親鸞は生老病死の危機管理の専門家なんだ。生老病死の危機管理について、念仏だけを
したらどうですかと勧めているんだ。

294 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:43:11 ID:OGm9BTha
>苦しみに満ちたこの世が嫌なだけ。

 生老病死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦、この四苦八苦は、嫌だ嫌だと言ってい
るだけでは解決はない。乗り越えていくことが必要だ。それが釈迦や親鸞が専門としていた危機
管理だ。

>この世に刹那の快楽を求めてそれを繰り返すだけ。

 刹那の快楽は仏教に求めても何も解決はない。これは危機管理の問題ではない。刹那の快楽は、
平常業務の一部として仏教以外で探すといい。仏教には危機管理を学ぶだけだ。

>迷い惑うて、何かを信じる心もころころ変わるだけ。
      それは別に悪いことではないだろう

>真宗にこそ解決の道がある、と思ったけれど、

 真宗で解決できるものと解決しないものとがある。肉屋に野菜を売れと言っても無理な注文だ。
八百屋にマグロを売れと言っても無理な注文だ。
 自分は何を求めていたのかということが問題だ。マグロが欲しいなら魚屋に行く。野菜が欲し
いなら八百屋に行く。需要と供給の関係をきちんと選択することは大事なことだ。
 真宗に貴方は何を求めていたのか?。

>それがただの早合点に過ぎないかも知れないと思えば、ますます不信が深まるばかり。

 早合点かどうかは、慎重に考えるべきだろう。早合点に過ぎないと思ったことが早合点かも知
れない。            (以下、続く)

295 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 10:56:34 ID:OGm9BTha
>293 (追加)

誤  これが欣求浄土である。親鸞はそういう。

正  これが欣求浄土である。親鸞はそういう。
 右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判

 歎異抄というこの聖教は、浄土真宗の大事な聖教である。無宿善の機には、妄りにみ
せてはいけない。蓮如。

 歎異抄の最後に蓮如が書いている注意書きは、「悪苦しからず」と書いてある歎異抄に
ついて、「その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候」
と言っている親鸞の真意と完全に符合する。
 真宗の本意は、浄土を求めよう。穢土を離れよう。この世の悪いことを捨て、よりよいこ
とをしていこうという提案だ。


296 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 12:01:46 ID:QMXmkgRc
>>292-295
だらだら長文を書く暇があったら職探せよおっさん。

297 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 12:04:48 ID:2pNoaoKi
浄土真宗イコールBなイメージが強いな

298 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 01:06:59 ID:yRZPx5UB
>263

観音菩薩、地蔵菩薩が弥陀の救いに導いてくださる話は、私も聞いたことがあります。

263さんは、他でも書き込んでいらっしゃるのでしょうか。

299 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:32:28 ID:GUf+qKhn
>仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。

 遠くのものが見えない近眼の人はめがねをかければいい。めがねでその危機管理問題は解決する。

 実に人は生老病死を免れない。小さな石があるだけでけつまづいてひっくり返る。ついさっきま
で使っていたものがすぐに見えなくなる。その度におろおろと探し回る。
 新たなことを始めようと思って再起(生)を誓えば、その先は未経験の世界だ。何をすればいい
のか分からない。気持ちは必死にそっちに向いて高ぶっても、なにをしていいか分からない。試行
錯誤して人は様々に彷徨(病)する。やがて気持ちは半分嫌になる。決意が薄れて疲労(老)し、
体は単に惰性で動いているだけになる。意思も萎え、行動も続かなくなれば挫折(死)する。生も
老も病も死も、すべてこれは人生の危機である。

 人生の危機に当たっても、相談相手があるときは相手に相談すればいい。調べて分かる本があれ
ば本を読めばいい。インターネットで検索すればいいときには、インターネットもある。しかし、
そうした手段が全て尽きるときというのもあるだろう。

 気ばかり焦ってもどうにもならん。そんなときはどっかり座ってみなさいな。
 (釈迦)、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる(行の巻)。 〜 「王いま座禅してた
だ当に念仏すべし(行の巻)

300 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:33:37 ID:GUf+qKhn
 蓮華座は極楽浄土の正式な着座法(観無量寿経)だ。念仏は座禅して称えるのが作法である。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。弥陀法王の四十八願の名号をもって、仏となして願
力を事にして衆生を度したまふ。  〜  今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。 〜 五
とはこれ会数なり。会とは集会なり。かの五種の音声、緩より急に至るまで、仏法僧を准念して更
に雑念なし。 〜 また如来禅と名づく、二乗外道等の禅にあらず。まことに知るべし。(五会法
事讃略抄〈親鸞作〉)。

 親鸞は念仏三昧を勧める。念仏三昧は真の無上深妙の禅門である。阿弥陀仏は、念仏の衆生を摂
取する。弥陀法王は、四十八願の名号をもって仏となり、願(意思)・力(行動)を働かせ、念仏
の衆生を度したまふ。いま、大無量寿経によって五会念仏を念じようと思う。五とは回数である。
数の集合である。五回の念仏をもって一サイクルとする。五種類の音声を発する。五回の中で、あ
るときはゆっくり、あるときは速く称える。この中に仏・法・僧をなぞらえて念じる。この他に混
じりけはない。これは(達磨大師が中国に招来した)如来禅である。声聞・縁覚などの小乗仏教、
あるいは仏道以外の教えが説く座禅ではない。

第一の会は平声に緩く念ず  南無阿弥陀仏
第二の会は平に声を上げて緩く念ず  南無阿弥陀仏
第三の会は非緩非急に念ず  南無阿弥陀仏
第四の会は漸く急に念ず  南無阿弥陀仏
第五の会は四字に転じて急に念ず  阿弥陀仏

301 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:34:36 ID:GUf+qKhn
 一回目。抑揚を付けず、ゆっくりと南無阿弥陀仏と、一息(8秒〈渡海難の目安〉)で称える。
 息を吸う。
 二回目。抑揚を付けず、半音上げ、平坦にゆっくりと南無阿弥陀仏と、一息(8秒)で称える。
 息を吸う。
 三回目。抑揚を付けず、普通の速度で南無阿弥陀仏と称え、残りの息を吐き出す。一息で称える。
 息を吸う。
 四・五回目。南無は普通の速さ、続いて阿弥陀仏、阿弥陀仏と速く称える。四回目と五回目は一
息(3秒)で称える。
 息を吸う。

 五会念仏は、中国仏教全盛時代、中国仏教最高峰の法照禅師が唐の皇帝に教え、その後中国全土
に広まった禅法だ。呼吸の調整法に抜群の効果がある。親鸞はこれを優れた称名念仏法、念仏三昧
方法として着目した。 法照は後善導、善導大師の再来と仰がれ、日本からは史上最後の遣唐使で
ある円仁大師が中国で学んできた。帰国後は比叡山でこれを指導した。

 親鸞は教行信証で念仏三昧を勧め、法照の文章を引用し、念仏三昧は座禅して行えと指導する。
親鸞は、五会法事讃略抄という抄録を弟子に残し、そのなかでこの五会念仏を念仏三昧法として具
体的に教えてくれている。

 仏教とは危機管理の教えだ。危機管理とは、危機になってから準備するものじゃない。消火器は
火事になる前から置いておけ。めがねは石にけつまずく前からかけておけ。
 親鸞は教行信証の中で、繰り返し繰り返し念仏三昧の重要性を強調している。日頃からこれを実
践するといいだろう。これが仏法の実践法だ。(続く)

302 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 09:48:59 ID:3HchwHkm
> 蓮華座は極楽浄土の正式な着座法(観無量寿経)だ。念仏は座禅して称えるのが作法である。

これが渡海流座禅念仏の作法↓
  ||  !| │
  ||  !| │
=||=!| │
  ||  !| │
  ||  !| │
Ξ||Ξ!| │                …ああ先生ぇ……
─.─.┤ |                   …/lァ/lァ/lァ/lァ……ぅ!
     |  .!                 :.,;;;;;;;;;;;、ニニニニニニ.、
     |  .!                  {;;;;;;;;;;;;;;}   ̄ ̄!| |.!
    ||`ー|. ̄ 丁 ̄|\          :'::;;;;;;;;;::'  __」.! !.!
  __||二二二]|__ || |       ,r''''"~    ""''ヽ.:l─´. !.!
  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.!l `ヽ !、     :.i'           'i,=コ|.|
  ||  l三三l  ||  ,_」___: |             'i,'丑丑|ニl___,'ニヽ___
  ||.==========!l  '‐┬┬‐─ !        i'>  }. ─────┬┌′
  ||  l三三l  ||   | /丁,.` !       ; _ノ _,...、 ̄ ̄ ̄丁ヽ、|
  ||==========:!|   | !.|  'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'"   ノ   .  .! | |
  ||  l三三l  !l   .| !.!  ヽ.i' "'    '''"';  _/  _,,..i'"':, . ! ! !_
  ||----------|.! ___,| !.|_メ´丶ゝ_,.i、_   _,;..-'"   |\`、: i'、.`ー'
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ー'"            ̄        \\`_',..-i
                                  .    \|_,..-┘

こうして、今日もパソコンの前で一日中座禅念仏をする渡海難であった。。。

303 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 10:47:59 ID:GUf+qKhn
>> 302
 どのような姿勢で称えるのか分かりやすく教えてくれというリクエストを寄せてきたようだ。
 どのように称えるのか。録音してみた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/syuu/image2/5enenbutu.wav 2回称えている。
僕の声だ。

>> 320 は画像が欲しいというのでリクエストに応えよう。下手なポンチ絵より、こっちがいいだろ
う ↓
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/image/kobetu/ddaibutu/pkamakuradaibutu2.jpg

 脚はこのように組む↓
http://www.bukkyo-kikaku.com/kekkahuza.jpg

 図の中に、趺坐以外に経行(きんひん)という歩く姿も書いてある。歩く禅と言われる方法で、
1秒間に50cm〜1mくらいのゆっくりした速度で歩く。
 経行については、僕はこれを、南無阿弥陀仏を称えながら実行している。その時は五会念仏
ではなく、普通の念仏をしている。一回南無阿弥陀仏を称えたら、一歩。また称えたらもう一歩
と歩いている。不断念仏という方法だ。不断念仏は、恵信尼の手紙の中に出てくる。

 僕の場合、念仏は1日10分〜20分程度している。人生で困ってほとんど食事も喉を通らない
ようなときには、2時間、3時間、2日、3日と、連続して称えることもある。

 「五分座れば五分間の仏、十分間座れば十分間の仏」。昔、鎌倉円覚寺の学生座禅会で、こ
んな言葉を白隠禅師の言葉として聞いたのを思い出した。

 これが親鸞流の仏道だと僕は思っている。  (続く)

304 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 11:18:28 ID:gp0rw6JD
>>303
キモイものをうpするなよおっさん。
キモヲタの声なんか誰も聴きたくないんだよ。

305 :774:2007/11/22(木) 17:50:00 ID:nmoP6WuR
時間が出来たので、少しだけ。
虚仮不実の我が身が何を思っても、言っても、本体が虚仮不実であるならば、
虚仮不実たる事実から、一歩も外へは出られません。
今は虚仮不実であっても、何かしらの方法を実践すれば、
いつか、真実になることがあるのでしょうか。
答えは否です。何故なら虚仮不実の身が予測する真実に向かって(方向性の転倒)、
実践する身もまた虚仮不実(主体の転倒)、自ずと果は転倒した果となります。
全く虚仮不実を含まないもの、真実は何処にあるか?
もはや、三業の所修に一刹那として清浄ならざる所がない、
仏の所行以外にはありえないことになります。
その仏の所行とは、衆生を必ず浄土に生まれさせ、悟りの妙果を開かせ、
もう迷いの輪廻にとどまらせない、と言う願行であります。
その願行が結実した名号の他に、真実はありえないことになります。
「必ず救う、間違いない」仏の願行のみが真実であったのです。
虚仮不実の我が身が、三年経てば美しく変身するのかといえば、
毎日、業苦を積みあげて、三年分蓄積されただけかもしれません。
知らず知らずに業苦の種を撒き、自損損他の煩悩に隷属し続ければ、
良い結果など訪れるはずがないでしょう。
それ故に、放っておくことができなかった仏の大慈悲を眺めれば、
何が真実か、何によって生きていくべきか、筋道が立つのではないでしょうか。
仏力、他力、本願力、本願力にて往生す

306 :斎尾裕史:2007/11/22(木) 18:12:09 ID:Ax53zdIN
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親鸞会は除名になっちゃったけど(笑)
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307 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 19:46:38 ID:PsGz+vlc
本願名号のお力だね!

308 :神も仏も名無しさん:2007/11/23(金) 00:08:25 ID:fxL4IbtC
本願名号のおカねだ!

309 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 00:46:38 ID:9SypLsBm
>255
> 仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。何を、どのように、求めていくべきか。

 いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

 聴聞を心に入れて申せ。蓮如はそう言う。申すとは何を申すのか。聴聞を申すというのはおか
しな言い方だ。申すとは、念仏を申すということだ。つまり、聴聞を心に入れて念仏を申せと言
っている。できるだけ聴聞と称名念仏を怠たらないようにしようと言っている。
 仏法は聴聞にきわまるという。この言葉は大事なところだろう。真実には二つある。有形の真
理と無形の真理だ。有形の真理とは、形に表現できる真理をいう。釈迦は、形に表現できる真理
はできるだけ有形化した。文字・絵画・彫刻・建築物など、様々に有形化して表わしてくれてい
る。有形化した真理を智慧という。一番重要なのが、言葉で文字化した真理だ。これは経典に示
されてあり、仏法という。法は言葉で表してある真理だ。言語化・文字化してある真理は、言葉を
通じてしっかり聞いてほしい。仏法は聴聞にきわまるとはそういうことだ。

310 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 00:48:20 ID:9SypLsBm
 無形の真理は形に表すことができない。釈迦はこれは、誰でも容易に手の届くところに置いた。
無形の真理は直接表示できない。しかしそれは体得できる方法論を示してくれた。それが禅定だ。
 釈迦は、真理を学びたいという人には、人として、師弟関係で一定のルールを守ることを誓わ
せた。戒律だ。戒律を守ることを誓った者に、有形の真理を智慧として公開し、無形の真理は禅
定という形で容易に手にはいるように公開した。戒定慧を三学という。仏教の基本だ。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり(五会法事讃略抄)。称名念仏、とくに親鸞が重視
している念仏三昧はこの禅定の部類に入る。
 法という形で言語化してある真理はしっかり聞いて学んで欲しい。平行して無形の真理は、称
名念仏、特に念仏三昧という形で体得していく。しかも、内心には他力の信心をふかくたくわえ
て、世間の仁義をもって本とすべしといい(お文二帳目)、末法の世で戒律が崩壊した時代でも、
世間の道徳の重要性を説いている。これは三学の戒律に通じるものだ。
 蓮如が説く親鸞仏教は、まさに釈迦仏教の原理をそのまま踏襲している。これは、親鸞の真意
といささかも狂ってないと僕は思う。

 では、正しい仏法は誰に聞けばいいのか。そこが問題だ。(続く)

311 :神も仏も名無しさん:2007/11/24(土) 15:26:30 ID:DHFDPP/N
>298
観音菩薩、地蔵菩薩が弥陀の救いに導いてくださる話は、私も聞いたことがあります。

263さんは、他でも書き込んでいらっしゃるのでしょうか。

263です、2ちゃん初心者ですのでたま-にのぞいてます
  
 書き込みはしていませんよ。

312 :298:2007/11/25(日) 04:44:56 ID:/9LdURlk
263さん

そうですか、どこかで書き込んでいらっしゃるのであれば、ぜひお読みしたいと思いました。

信を得ている方は菩薩である謂れがございますので、どのようなお話でも聞いてみたいと思います。

2ちゃんでは、書き込めないことも多いと思います。真実信心得ている方々のお話しを、いろいろと聞いてみたいものです。



313 :神も仏も名無しさん:2007/11/25(日) 18:04:33 ID:bowhuGo8
信は無いよ。
如来の南無阿弥陀仏の呼びかけ以外に信なんて無い。
如来の呼びかけ以外に信や真実が自分たちに有るとするなら、
それは浄土真宗でも親鸞の教えでも無いよ。

314 :298:2007/11/25(日) 19:20:45 ID:/9LdURlk
信がない・・・

親鸞聖人も、教行信証にて、真実信心について、いろいろ書いてくださっています。

凡愚も獲ること叶う、真実の信楽です。

たまたま獲ることのできる、浄信です。

「獲」という字が多用されています。ご確認ください。

(「獲」と「得」を、御開山は使い分けていらっしゃいます。)

「浄土真宗でも親鸞の教えでもない」とおっしゃるあなたは、信を獲ているのですか。

まずは、ご自身が信をお穫りになることが肝要です。



315 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/25(日) 21:48:00 ID:y5sfJwbQ
 2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
 集合場所、東京・新宿駅
 近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会

 12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。

 これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
 何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。

 集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
 集合者がゼロなら中止。
 なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。

  tkatasi@mail.goo.ne.jp

316 :神も仏も名無しさん:2007/11/25(日) 23:35:47 ID:bowhuGo8
>>398

信が無くたって、「必ず救う」の南無阿弥陀仏の呼びかけがあるじゃん(笑)
これほど確実な如来回向の信は無いよ。
信に、何か実体的なものがらを連想してしまうから、
信を得てるかどうかの議論になるけどさ、
そんな実体的なもんは無いんだよ。
必ず救う、必ず仏にする、必ず助ける、の南無阿弥陀仏
の声を聞いたじゃない。
それが信なんだよ。
私には阿弥陀仏の救いを邪魔する力も無いし、
阿弥陀仏の救いを受け入れる殊勝さも無い、
それでいいんだよ。
阿弥陀仏の南無阿弥陀仏の声で全て足りる訳だよ。
そしたら南無阿弥陀仏、なんまんだぶととなえる事は讃える事になるでしょ。

こっちがどうであれ、南無阿弥陀仏の救うぞ〜の声は全く変わり無いんだから安心するじゃないか。
こっちの変化で南無阿弥陀仏の救いが変わるんなら、安心なんか出来ないよ。
こっちがいろいろやったり、南無阿弥陀仏を一生けんめいとなえて
救われようとするのが十九願・二十願だろ。
そうじゃなくて、南無阿弥陀仏は必ず救うぞの阿弥陀仏のお声だったんだな、と
知らされていくのが十八願なんだよ。しかも南無阿弥陀仏は仏体そのものだからね。
こんな確実なもの無いじゃない。他に信とか必要有る?あると思うなら探してみたらいいよ、あきるまで。

317 :298:2007/11/25(日) 23:59:19 ID:/9LdURlk

316 様

それでご満足されているのでしたら、私からは特に申し上げる事はございません。

しかし、それでは満足行かない有縁の方に申し上げたいことがございます。

弥陀は「必ず救う」と呼びかけて下さっている。これは、確かにその通りです。

ですので、弥陀のその呼び声「助けさせよ」に応え、「助けたまえ」と受け入れる時が必要です。

これにより、如実修行が叶い、真実信心をいただきます。

南无阿彌陀佛は、方便法身であり、無上方便です。行者は、それと一体にならねばなりません。


318 :298:2007/11/26(月) 03:00:40 ID:YURwZNO0
渡海難様は、どんな方ですか。
このスレッドの書き込みを読む限りは、私とは、相当考え方が違うのです。
それでもお話することできるのでしょうか。
真宗に興味のある方のようですので、その部分に、とても関心があります。
もう安心を得ている方ですか。
また、私はお酒は飲まないのですが、大丈夫ですか。

319 :774:2007/11/26(月) 12:10:45 ID:Wx5HaXaz
横レス失礼します。
>316
信心が無いわけではないでしょう。親鸞聖人は、教行信証と「信」を顕らかにされておられるのですから。
しかしながら、あなたのおっしゃる通り、
信心を求めている間は、信はなく、信心を得たと思っているのも、
また、凡夫の欲望が作り出した産物、幻影に他ならないでしょう。
すなわち、そうした方々には信心はないと言わねばなりません。
信心とは全く仏心そのものであり、凡夫のはからうところではなく、
如来の「必ず救う」のおよび声にはからわれること、
増減を加えることない全くそのものなのですから。故に無二心と言われます。
>317
凡夫の満足はどこまで言っても凡夫の満足です。往生浄土のためには必要ありません。
また、あなたの主張は仏凡合体安心ですね。真宗義ではありません。
例えば『安心決定鈔』を根本義とする秘事法門系に近い主張だと思います。
求道ということは、立派で尊いことと頭が下がりますが、
世の中には、それが出来る時間も余裕もない方々が沢山おられます。
我々は全てたまたま、縁あって、それぞれの経緯を辿ってきただけであって、
それ以上でも以下でもありません。
ところが、仏の大悲は違います。出離無縁の我々をつかんで離さない。
聴いて決定するのではない。決定したお助けを聴かせていただくのみです。
聴いて間違いなくなるのではない。間違いないお助けを聴かせていただくのみです。
自性唯心のままに惑わされて、いつまでも輪廻を繰り返すのは
もったいないこととは思いませんか。
ようこそようこそ
南無阿弥陀仏

320 :298:2007/11/26(月) 16:47:38 ID:BXzP2tJ7
>774
どのようなところから、「秘事法門」系と感じられるのか、ぜひ詳しくお聞かせください。
もちろん、宿善が無いからだと考えることもできます。しかし、それで放っておくのは、あまりにも悲しいことです。
774様は、秘事法門系について、どれくらいの知識をお持ちですか。
秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、真実行の一部の要素は保っているはずです。
しかし、それでは十全ではありませんので、如実修行とならず、信心いただくこと、叶いません。
私のこれまでの経験では、自己流の信心を積み重ねてきた方が、よく知らないままで、秘事法門系であるという批難を致します。
しかしそれは、あくまでも知らないからに過ぎません。弥陀は、そのような方も救います。ですので、「なぜそう感じるのか」ぜひ確認していただきたいのです。

『「別解」は、念佛をしながら他力をたのまぬなり、「別」といふは、一なるこ
とを二にわかちなすことばなり、「解」はさとるといふ、とくという語なり、念
佛なしながら自力にさとりなすなり、故に「別解」といふなり。また助業をこの
むもの、是れ即ち自力をはげむ人なり、「自力」といふは、我が身をたのみ、我
が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ人なり』

774様は、念仏なしながら自力にさとりをなし、我が心をたのむ人であると拝されます。

321 :神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 18:20:11 ID:mbgJeS9h
如来の必ず救うぞ、の南無阿弥陀仏があるから、
それを頼りにする心が起こる。

なんでお念仏しようと思う心が起きたのか、
南無阿弥陀仏の呼び声が先にあったから。

322 :774:2007/11/26(月) 18:59:49 ID:Wx5HaXaz
>320
>どのようなところから、「秘事法門」系と感じられるのか、
>ぜひ詳しくお聞かせください。
南無阿弥陀仏と一体になることを指して、信心決定とするからです。
機法一体ならぬ機法合体安心に非常に似ていると思います。
たのむ機(南無)とたすける法(阿弥陀仏)が融摂した所を指して、
浄土の往因が究竟した、即ち信心決定とするのが、機法合体安心です。
あなたの場合は、南無阿弥陀仏と凡心が融摂した所を信心とする立場とされるようなので、
仏凡合体安心と仮に名付けさせていただきました。
>774様は、秘事法門系について、どれくらいの知識をお持ちですか。
かくし念仏の歴史、異安心論争について、粗々存知している程度です。
が、その構造が何をバックボーンとしているかは、理解しているつもりです。
>秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、
>真実行の一部の要素は保っているはずです。
意味がわかりません。お聖教上に典拠はありますか?詳しく説明して下さい。
>私のこれまでの経験では、自己流の信心を積み重ねてきた方が、
>よく知らないままで、秘事法門系であるという批難を致します。
自己流の信心も無ければ、積み重ねの信心も御当流にはありません。
もう一度、私のレスを再読して下さい。

323 :>>318:2007/11/26(月) 23:58:36 ID:kgjcVT5Y
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者

324 :神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 23:59:39 ID:kgjcVT5Y
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

325 :298:2007/11/27(火) 00:56:22 ID:oeTtF7bq
>>774

>機法一体ならぬ機法合体安心に非常に似ていると思います。
>たのむ機(南無)とたすける法(阿弥陀仏)が融摂した所を指して、
>浄土の往因が究竟した、即ち信心決定とするのが、機法合体安心です。
>あなたの場合は、南無阿弥陀仏と凡心が融摂した所を信心とする立場とされるようなので、
>仏凡合体安心と仮に名付けさせていただきました。

この部分ですが、何を言っているのかさっぱりわかりません。

「機法一体」と「機法合体安心」の違いについて、今少し説明してください。


>>秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、
>>真実行の一部の要素は保っているはずです。
>意味がわかりません。お聖教上に典拠はありますか?詳しく説明して下さい。

典拠はありますが、信後の方でなければ、詳しく説明することはできません。

この質問にそのままお答えしようとすると、さまざまな秘事法門系と言われるものを列挙し、それについて、それぞれお聖教の典拠を出さなければならなくなります。

具体的に、774様が秘事法門系の例をひとつ出してくだされば、それに対応するご聖教を出すことはできるかもしれません。(774様の「ご聖教」とは、三部教に限られますか。できますならば、その範囲も教えて下さい。)

また、774様が認識している秘事法門系のうち、私はどれに該当すると推測されましたか。できれば、それも教えていただけると、とても助かります。

なぜなら、秘事法門系と誤解して、真実信心を求めることができない方々が、今の世には、多いようだからです。

そのような誤解を解いてゆくことは(もちろん、聞く耳のある方だけに限られますが)とても大事なことです。なぜなら、批難している方々の多くには、悪気があるわけではないからです。中には、気付く方もいらっしゃるかもしれません。

(つづく)

326 :298:2007/11/27(火) 00:57:21 ID:oeTtF7bq
(つづき)
>自己流の信心も無ければ、積み重ねの信心も御当流にはありません。
>もう一度、私のレスを再読して下さい。

読み直しましたが、自己流の信心であると思います。
自己流の信心であっても、素晴らしい信心を得ている方はいると思います。
しかし、それがどんなに素晴らしい境地だとしても、他力の信を求める方の道しるべにはならないのです。
そのような境地を作ることができない、聖道叶わぬ凡夫のための易行の門だからです。
どのような凡夫でも、たちどころに救い摂る、凡夫直入の弥陀の本願海です。
774様がご自覚なさるためには、お聖教と割符が合うかを見て行くことだと思います。
774様は、御文をご聖典と認めていらっしゃいますか。

◎これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり

「やすく」「一切衆生」「すがた」が特に大切です。

◎さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、
ただ南無阿弥陀仏なり。
この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、
すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし

「六つの字のこころをくはしくしりたる」は「すがた」です。
「六字の体」とは、何ですか。
これらと領解は合いますか。
あるいは、一枚起請文の「学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」は、どうですか。教義のことを何も知らない方でも、救われる道ですか。

327 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 01:52:40 ID:E77YHOfw
774も298も、教学論争みたいになってて分かりにくい・・・

あの妙好人、もどってこなかったな。スレタイがこれなのに、妙好人がいないスレってw
それに、774も298も、正しいこと言ってるかどうか分からん。
まともそうだった7さんも最近見ないし。

あと、おれから見て、774さんの「求道はダメ、今聞きなさい」というのはどうもオカシイ感じがする。
年とった人で、おれと同じこと言ってる人がいたし。


 「それは、あなたが信心決定したからというて、すぐにひとが納得す
   るというようなわけにいきませんわ。信心決定すればですね、あなた
   は一生涯かかってでも、一生かかって一人の人間だけでも納得させた
   らけっこうだと思います。

    やっぱり、ある方は十年たち、あるいは二十年かかり、あるいは三
   十年、四十年かかって、そうしてようやく自分が「なるほどだなあ」
   とうなずくのであります。とにかく即席でもってうなずく法があるか
   と、そういうことはありませんわ。」

774さんだったら、この人のことどう思うのかな?

328 :298:2007/11/27(火) 02:14:54 ID:oeTtF7bq
>327
わかりにくくて、申し訳ありません。「ご聖教で」と根拠を求められれば、
どうしても、あのようになってしまいます。理屈を好む方に、
理屈で対することにより、疑心が解けることもありましょうし、
理屈を好む方でも、信を得ている方の姿を見て心を打たれ、
理屈なくして疑心が解けることもあるでしょう。

信を得ている方も、機によって、しゃべる内容も、ひとりひとり異なりますので、
327様がご納得できる方にお会いすることが大切だと思います。

ご引用くださった方のご発言ですが、ご発言内容につきましては、
私は、一文字残らず同感です。

その発言以外のところでは、違いがあるかもしれないのですが・・・

「即席でもってうなずく法」はないのですが、うなずけた方は、
その後で、真実の行を経由します。ここによって、ご同行となるのです。

ただし、どんな人でも10年、20年かかる、ということではありません。

早い人であれば、「その日のうち」ということも、あり得ます。
(ただしこれは極端な例で、ふつうは短くても数日かかるのではないかと思います。)

それにしても、ご引用の通りでありまして、私がこのように書いたとしても、
327様がうなずくかどうかは、全くわからないのです。

329 :774:2007/11/27(火) 06:10:53 ID:AJ7PGSsE
>325
まず、あなたが如何なる団体に属しておられるのか?教えていただけませんか?
あなたは誰の影響によって、このような書き込みをされるのか、
それが明らかになれば、あなたの信仰が何に基づくものなのか、
それが、正意なのか否か、判断する情報の一つになることでしょう。
私の経緯は、親鸞会の過去スレで述べましたので、ご参考下さい。
秘事法門に関しては、そのありさまを具体的に著している史料が数多く残っています。
例えば、江戸伊勢町金右衛門の著した『庫裏法門記』には、
金右衛門が誘われた善兵衛という善知識率いる秘事法門集団の秘事の様子、
布教方法、また、幕府による摘発まで詳細に記されています。
小栗純子先生の『妙好人とかくれ念仏』(講談社現代新書)で、
現代語訳され、さらに幕潘体制に屈伏埋没した本願寺との対比、
民衆の渇望としての秘事法門とその失敗について、論述されていますので、
一読されるとよいかもしれません。


330 :774:2007/11/27(火) 06:37:11 ID:AJ7PGSsE
>329の続き
『妙好人とかくれ念仏』P.101に、かくれ念仏の救いと題され、以下のようにあります。
「辰の刻(午前八時ころ)近くに(善知識善兵衛の)法話がはじまった。
昨日と同様である。みなのものは、今日、(救われる)願いがかなわなければ、
またいつの日か成就する日があろうかと心配し、泣き叫び、もだえ苦しむ様は、
見るにたえないほどであった。さらに善兵衛は、つぎのように説法をつづける。
「この次の席で、蓮如上人の御文を聴聞すれば、それで理解すべきことは終わりで、
ひととおりの相伝はすむのである。この救済の儀式がすんだなら、ひたすらに仏に対して
祈願したなら、その時ただ仏と仏の出会いといって成仏の証があるのだ。
この時、この世にうけた穢身は、仏に捧げて、沙婆での人生は終るのである。
そして新しく生れ変わった時、極楽浄土のメンバー(正定聚)となり、
この世に還来して、いっさいの衆生を救おうという願いがおこる。
それは釈迦仏と同じ境地になるのである。」そして、「ここにお集まりの方々の中にも罪障深くして、いまだこの世を厭う心も薄く、
妻子を名残惜しく思う人があるとすれば、その人はまだ仏縁が到来しない(宿善なき)人である。
気にせず、この座を去ってよろしい」といい放つ。これを聞いた願人たちは、
いよいよ往生決定の時期が近づいたことを喜び、信心決定の時点はいつだろう、
摂取の光明を拝むと聞いているが、いったいどんなことだろうか、
聖衆の姿がみえるだろうか、雲にのるだろうか、天にものぼるのだろうか、
けなげに思いつめるものたちが悦びの涙にむせぶのである。」


331 :298:2007/11/27(火) 06:52:21 ID:oeTtF7bq
774様
私のどのような書き込みから、そのようなものと同一視ができたのか、
とても不思議です。まるで、神通でもお持ちのようですね。
私が信を得た現場も、よろしければ、描写してみてください。
できますか? できないでしょう。
それで人を秘事法門系と決めつけるのですから、すごい方ですね。
それに、団体名で判断しようという時点で、私とは考え方が違います。
信を得るのは、ひとりひとりの出来事です。
あなたは、団体名を聞かなければ、判断ができないのですか。
そのような正信が、あるとは思えません。
よって、自力の信であると申し上げているのです。
私が引いたところと、領解は合いますか。
他力信いただいている方であれば、ピッタリと符号するはずです。
では、お約束の通り、ご聖典の何と対応しているかです。
「正定聚の位をいただける」ことは、御聖典の通りです。
しかし、そのためには何をすれば良いのか、が違います。
これで、私は約束を果たしました。
このように、一部の要素は、御聖典に対応しているのです。

332 :298:2007/11/27(火) 08:30:48 ID:oeTtF7bq
263 さん
263さんは、どう思われますか。私がこのスレを一読して、一番関心があるのは、263さんです。
唯一、ご同行なのではないかと思います。

333 :298:2007/11/27(火) 09:14:14 ID:oeTtF7bq
それから、上の方に、

>わたしの本性からいえばアドバイスせずに「他の人は獲信体験にたどりつかずに死んでいけばいい」と
>1人ほくそえむような、悪魔の心しかありません。まさに罪悪深重の悪人。

という書き込みがありましたが、本当ですか・・・
おそらく、これは、機の深信をご自身で解釈なさっているのはないでしょうか。
「機の深信を得ている」と酔っているその心が、悪魔の心(=本願疑惑心)であり、
本願を遠ざけている心ですよ。



334 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:02:30 ID:XkA34sxD
 腹に入らず、頭のつむじの当たりでシラミがうごめいているだけの頭でっかちの戯論が往復してい
るだけのようなので、話の先を進める。

 まあこういうことを言うと、お前(渡海難)の方が戯論だと、行き当たりばったりで中身のない言
い返しをしてくる奴が出てくる。まあ、この際なんでもいいや。信謗共にあるべし。こっちも多忙だ。
構っていられない。先を急ごう。

>>255,>>310
 法は誰に教わるのか。親鸞は、化身土巻で末法燈明記を引用し、次のように言う。

 たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮
石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。かくのごとき一切世間の宝
なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。
もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上と
す。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上
とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。余の九十五種の
異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。何をもってのゆえに。
能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに。護持し養育してこの人を安置することあらんは、久
しからずして忍地を得んと。

335 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:03:44 ID:XkA34sxD
 この世で最も価値があるのは黄金である。しかし黄金がないときには白銀を最高の宝とする。無価
とは、それ以上の価値ものは存在しない最高の物という意味である。白銀も無いときには鍮石(天然
真鍮)、偽宝(人造真鍮)を最高の宝とする。これもないときには、赤銅・白銅・鉄などが尊い。あ
るいは銅と白鑞(銅・亜鉛合金)、鉛、スズを宝とする。
 この世で最も尊いのは仏法である。仏法とは、言語という形に仏が有形化して示した真理である。
もし、そのような宝がないときには、 縁覚の法つまり、小乗の聖者が言語という形に有形化して示
した真理が尊い。あるいは小乗の修行を卒業した阿羅漢の法が尊い。それも無いときにはどうするか。
それ以外の賢人、聖者の言葉を尊べ。
 もし、賢人・聖者がなければ、禅定の中で一定の確信を得た凡夫を尊べ。禅定の中で一定の確信を
得た凡夫も無いとき、戒律を守っている凡夫を尊べ。戒律を守っている凡夫もいないときには、戒律
を破ったり破らなかったりしている出家を尊べ。もしそのような出家もいなければ、頭を剃り、ヒゲ
を剃り、袈裟を肩に掛けているだけの全くの形ばかりの出家を尊べ。それだけでも、九五種に及ぶ仏
道以外の教えと比較すれば格段の違いである。彼らは、世間から供養を受ける資格がある。彼らは福
田である
「能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに」、原文は「破能身衆生所怖畏故」となっている。
これではよくわからない。高田専修寺本では「能示衆生可怖畏故」とある。真筆本(坂東本)ではな
く高田本で説明する。「よく人々のために人間として畏るべき事柄を知らせているからである」とい
う意味になる。
 これらの人々を大事にしていけば、やがてその人は悟りを得るだろう。忍地、忍とは認であり、認
識である。地とは境地を意味する。三法忍つまり、音響忍・柔順忍・無生法忍(大経)を言う。

336 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:08:11 ID:XkA34sxD
 この文章を読むと、末法の世にあれば、いわばアホンダラのノータリン坊主でも大事にしてやって
欲しいと、確かに坊さん側の弁解のように読めなくはない。末法燈明記は最澄の文書であり、親鸞は
そのほとんど全文を教行信証に引用している。親鸞の本意はどこにあるのか。仏道にある限り、九五
種の外道よりはましであって、仏道にある者を九五種の外道とは同一視しないでほしいということだ
ろう。親鸞は九五種に及ぶ外道を切り捨てているのだ。外道に陥りやすい人々に、どうか、仏道を尊
んでほしい。そんな主張をしている。仏道の陰には、常に九五種の外道がすり寄っていることを忘れ
てはならない。仏道であるのか、外道ではないのか。仏道の皮を被った外道の教えではないのか、物
事は用心して見極めていく必要があるだろう。

 末法の世にあって、2ちゃんねるで頭のつむじの当たりをくすぐる頭でっかっちのシラミの戯論の
九五種の外道を離れ、仏道に立っていこうじゃないか。シラミの戯論ではなく、腹の足しになることを考
えよう。最澄・親鸞は、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘というが、剃除鬚髪もなく、僧と俗は
完全にボーダレスになった現代、なおも九五種の外道ではなく、仏法の片鱗でも保持している者を探す
ことは容易ではない。現代の仏法を考えよう。  (続く)


>>318
 コメントは後日。

337 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 11:29:01 ID:MMZoIWNU
>>334-336
シラミ以下の屑は二度と来ないでね

338 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 21:24:51 ID:PwGZUS7e
法論みたいになっているけれど、298さんや263さんの語っていることが判らないんだが。


>現在の信宗の坊さんに知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
>いないのです、親鸞聖人より平民に分授されているからです、ただし蓮如さんは例外ですが
>このことは本当はこのようなところに書いてはいけないのですが・・・・

なぜ、知識は僧侶にはおらず、親鸞聖人より平民に分授されていると判るのだろう?
263さんや298さんはその由緒ある知識と、知り合いのように見うけられますけれど。

>わたしがいえることは例を挙げると近くの地蔵さんや観音様にどうか十八願のご縁
>を授かるようにと手を合わせてください

阿弥陀仏に一向専念するのではなく、地蔵様や観音様に十八願のご縁を授かるように手を合わせるのですか?

>娑婆でご縁に会うこと事がなくても心から願うような方は死後、生前お参りした如来・菩薩
>方は放っておきませんから虚しい事では決してありません

死後に生前お参りした地蔵様や観音様が阿弥陀仏に代わって、何かをしてくれるというのですか?

339 :298:2007/11/27(火) 23:40:23 ID:KKIpD8pA
>338

>>現在の信宗の坊さんに知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
>>いないのです、

ひょっとしたら、263さんと私の意見は違うかもしれないのですが、
私は、「現在の真宗の坊さんに知識は(あまり)いないのです」
あるいは、「真宗の坊さんだからと言って、知識とは限りません」
(そして、在家にも知識はいます)のように補って解しています。
ですけれども、「(あまり)いない」にしても、このように書くと挑戦的に
響くような気がするので、私はあまり好まないつもりです。
法論も好まないつもりです。
しかし、掲示板に書くと、法論のようになってしまっています。
これは、今の私が、掲示板のようなところで、どのように話してゆけばよいのか、
まだよくわかっていないからで、これから学んで行きたいです。
私は、自分が信を取ることを優先してきましたので、地蔵様や観音様については、
まだ勉強不足で、263さんに教わりたいと思っています。

>死後に生前お参りした地蔵様や観音様が阿弥陀仏に代わって、何かをしてくれるというのですか?

私が聞いたお話では、「阿弥陀仏に代わって」ではなく、
弥陀のもとに導くお役目をしてくださっていました。
338さんが、善知識に会いにゆくにしても、たとえば電車に乗るかもしれないですよね。
その車掌さんに、助けてもらうわけですが、「阿弥陀仏に代わって」は違いますよね。
摂取してくださるのは、もちろん阿弥陀如来です。



340 :298:2007/11/27(火) 23:54:17 ID:KKIpD8pA
>338
しつこくてすみません。補足です。
弥陀に一向専念は、もちろんのことです。ですけれども、信前の方は、
これはやろうとしてもできないはずです。どうやって、弥陀の方を向いたら良いのか、
わからないから、苦しんでいるのでしょう。
やろうとしてもできないから、たとえば20願の称名念仏があります。
そして、信を得るために、たとえば、2chのこのスレッドを見る。
これは、御文で言えば、「信心の沙汰」をしていることに当たります。
そのとき、このスレッドに書いている「人間」が、何かを助けてくれるのでは、
と期待して見るわけですけれども、だからと言って、一向専念無量寿佛を捨てているわけではないでしょう。
人間の代わりに、観音様や地蔵様に、正信に辿り着くのを助けてもらおうとする、ということだと思います。
263さんの考えは、私も知りたいですし、教わりたいです。
私も、観音様や地蔵様が助けて下さる話しを複数聞いていますし、自らの体験もありますので、
聞きたいと思うのです。

341 :774:2007/11/28(水) 00:01:21 ID:j+/5YAOn
遅くなりました。
>331
同一とは言っておりませんよ。秘事法門の一例として挙げただけです。
秘事法門は、江戸期においても摘発されれば、また巧みに形を変えてあらわれます
(全く別の人物が善知識として、全く違う場所で同じように信者を集め、
真実信心得た得ない、うちの善知識はホンモノ、あっちはニセモノだのと
絶対に結論が出ない戯論を繰り返している)。
あまり高等とは言えない脳内遊戯に埋没している点においては変わらないでしょう。
様々な秘事法門に共通するのは、我が集団の善知識こそ真に相伝を受けた者と言い
(無論、お聖教上の根拠はない)。
既存教団を仮想敵と位置付ける(私の善知識こそホンモノという
意識を強める効果があり、信者の結束を高める)こと。
人間の自己変革への欲求や、超日常への好奇心が無くならない限り、
こういった事象も無くならないだろうとは思いますが、
そういった欲求を起こさしめる根本無明こそが、実は輪廻の正因であると教えるのが仏教です。
にもかかわらず、凡夫の欲求に応じて起こる感覚・体験をもって払拭できたつもりになっている。
あたかも、その体験によって菩薩にでもなったかのごとく錯覚する。
仏教は一切智者の教えです。凡夫が、その欲求に耽溺するために説かれたのではありません。
むしろ、その甘美なる耽溺自体、偽りであり、毒であり、
そのために迷いを重ねてきたと教えられるのです。
試みに、あなたに信心を得させる強縁となった善知識様は、
何故、次第相承の善知識と言えるのか、証明してみて下さい。


342 :298:2007/11/28(水) 00:32:51 ID:ibEUp831
>341
先程上にも書いたのですが、どうも文体がうまく行きません。
口で話すときには、それほどきつく響かない気がするのですが、書き言葉だと、きつくなっています。
真宗のお話をできることはうれしいですので、少しずつ、文体を練習して、
掲示板でのコミュニケーションも上達したいと思います。
おつきあいくださることに感謝します。
善知識様ですが、「証明する」という発想が、どうなのでしょう、適切だと思いますでしょうか。
たとえば、774さんは、341の書き込みの内容を、ご証明できますか?
「証明」というのは、数学のことだと思うのですが・・・
私たちは、凡夫ですよ。わかり切ることは、ないからこそ、歎異抄第3段があるのでしょう?
では、誰でもいいのか、と言えば、もちろんそんなことはありません。
やはり、ご聖典と割符が合わないなら、いたずら事だと思います。
「一例として挙げただけ」とのことですが、341を見ても、やっぱり、何かしら、
イメージを形成しているような気がしますよ。
どこから、そう推測されるのか、私にはよくわからないので、おそらく774さんの先入観に
よるものだと思っています。ですから、私の書き込みのどこから、そのように推測されるのかを知りたいのです。
それと、できれば、「機法一体」と「機法合体安心」の違いについて、今少し説明してほしいです。
そして、774さんの領解は、私が引いたところと、合いますか。
私の書いていることへの疑問が解消されて行けば、信に近づくのでしょうか。
それを願っています。

343 :298:2007/11/28(水) 00:39:56 ID:ibEUp831
>341
それと、774さんが書いているのは、そもそも、真宗への疑いなのだと思います。
「凡夫直入で、易行で、正定聚だなんて、そんなこと、あるわけないじゃないか」
ということで、そう思うのは至極もっともですけれども、このスレッドは、
タイトルからして、真宗は本当だろうと感じている人が、正信を探すためのものだと
思って、書き込みをしたのです。
真宗に疑問を抱くのは、当然だからこそ、聖道門があるわけでしょう?
そうやって、弥陀が導いてくださっているのだと思っています。
その真宗への疑いこそが、本願疑惑心でしょう。ですけれども、それがあるのが
当たり前なのです。弥陀の光明に破砕していただくまでは、根本無明は晴れません。



344 :298:2007/11/28(水) 00:45:23 ID:ibEUp831
それと、774さんの歩みのスレがどれかわかりません。
もしよかったら、教えて下さい。そのスレで、774と検索すればわかるのでしょうか。

345 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 02:55:04 ID:cSLBMKme
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346 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 05:59:56 ID:iMEwFWEO
>298さん
 
  263です。あなたの言う通りです、よくご存知です。ただここでは

  これ以上話せません、無宿善の者に雑行と正業を論じると誹謗中傷の元となる謂れが
 
  あるので堅く禁じられています。ただあなたは信宗に興味のある方たちに

  伝えたい気持ちはわかりますよ。御文の第十二通 宿善有無の御文をみて

  ください、知っていると思いますが昔も今も変わりません。




347 :298:2007/11/28(水) 07:14:41 ID:UZ5uvv2K
263さん
書き込みありがとうございます。掟を守るのは当然のことです。
信を取るかどうか、私がはからっても、仕方ありません。
まことに宿善開発の機は、おのづから信を決定すべし。
正雑二行の沙汰、2chどころか、無宿善の機が見ている可能性があれば、できません。
しかし、この書き込みをいただけただけでも、こちらに書き込んだ意味がありました。
ありがとうございます。ご縁をいただけたことに感謝します。
昔も今も変わらない、ありがたいことです。次第相承の善知識のおかげです。

348 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:18:17 ID:ESbGrYkg
>>255,>>336
 僧と俗は完全にボーダレスになった。九五種の外道ではなく、仏法の片鱗でも保持している者
を探すことは容易ではない。
 蓮如は言う。「仏法は、知りそうもなきものが知る」。この現代で、「この人は仏法はなど、
およそ知らん人だろう」と思えるような人が、意外と心得ているものだ。「この人はきちんと仏
法について心得ている人だろう」と思えるような人が、意外とハチャメチャな考えをもっている。
知りたいことがあれば、まず、先入観を持たず聞くといい。「仏法というものは上下をいわずと
うべし」。蓮如はそう教えてくれている。

 誰に、何を、どう聞いていけばいいのか。親鸞は教行信証の冒頭で言う。「難思の弘誓は難度
海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」。
 親鸞は言う。難度海を度する大船は難思の弘誓であると。無明の闇を破する恵日は、無碍の光
明である。無碍の光明は、難思の弘誓に発する光だということだろう。親鸞はここで「難思の弘
誓」と言い、「難思議の弘誓」と言ってないところに注目する。難思の弘誓という言葉が示して
いる概念に何かヒントがありそうだ。難思の弘誓とは何か。大事なところだ。

 親鸞は、化身土巻の冒頭で言う。「至心回向の願、不定聚機、難思往生」と。ここで難思とい
う言葉が出てくる。難思の弘誓とは、「至心回向の願、不定聚機」という専門的な用語で示して
いる概念と何か密接な関係がありそうだ。

 化身土巻で親鸞は、阿弥陀経を議論する中で言う。
 いま方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち
植諸徳本の願これなり。

 いま、方便真門の誓願について、「行」という概念と「信」という概念が存在する。また、真
実という概念と方便という概念が出てくる。ここでいう誓願とは、植諸徳本の願である。

 「植諸徳本の願」。聞き慣れない言葉だが、大無量寿経を読む。大無量寿経で法蔵菩薩が立て
ている誓願の中で、第二十願に次のようにある。

349 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:19:05 ID:ESbGrYkg
(二十願) たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、
諸(もろもろの)徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、
正覚を取らじ。

 「心を至し回向する」つまり至心回向という言葉が出てくる。また、「諸徳本を植え」という
言葉が出てくる。難思往生とはこの第二十願に着目している概念であるようだ。親鸞はこの二十
願を、これを植諸徳本の願と言い、方便真門の誓願と言い、難思議の弘誓と言っている。馴染み
のある十八願ではない。この二十願をもって「難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破
する恵日」なりと言っているのだ。ここを間違わないで欲しい。この願について親鸞は次のよう
に言う。

 「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。「信」とは、すなわち至心
回向欲生の心これなり。

 この二十願から親鸞は行と信を導く。行は二つある。善本と徳本である。徳本という概念は、
二十願の中に徳本を植えという言葉で出てくる。善本という概念は親鸞の独創だ。いずれにして
も親鸞は、善本・徳本という二つの概念を出している。いま、これは触れない。

 親鸞は言う。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ難思往生これなり。「仏」と
は、すなわち化身なり。「土」とは、すなわち疑城胎宮これなり。

 機とは器量と意味だ。人間の器という意味である。人には、個性・特質で定(静)というタイ
プと散(動)というタイプとがあるという。人間のタイプには定(息慮凝心)という静的な修行
方法が適している人と、散(廃悪修善)という動的な修行方法が適している人がいる。二十願は
その静タイプと動タイプの両方に向かって語られている。なお、人の器を定と散に分ける考えは
善導による。善導は、「一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散」とい
う。

350 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:20:07 ID:ESbGrYkg
 二十願からは難思往生という概念が出てくる。これを親鸞は難思往生という。二十願に基づい
て、人が二十願に相応した修行を行い、それに基づいて信を得れば、二十願が想定している内容
での仏教への関わりが生じてくる。二十願が想定している内容での仏教への関わり、あるいは仏
教への参加の形を親鸞は、難思往生という言葉で表している。難度海を度する大船、無碍の光明
も、全てこの難思往生がもたらしてくるものだ。

 二十願には、十八願とは違った二十願なりの行と信とがある。二十願の行を行えと言っている
裏にはそう言っている主体がある。それは誰か。親鸞はそれを化身仏だという。これは報身仏で
はない。真仏ではない。また、その世界は疑城胎宮であるともいう。
 二十願には二十願なりの世界観、真理観がある。二十願で行を行え、信を得よと言っているが、
それは十八とは違った独自の世界観だ。親鸞はそこを源信の考えに習って疑城胎宮の世界と名付
ける。ここを考えよう。

 観経に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。顕と言うは、経家は一切諸行の少善
を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。

 疑城胎宮じゃ嫌じゃ。わしゃだまされたくない。直ちに真如界に導いてくれ。そういうリクエ
ストは当然あるだろう。化身仏はなぜ疑城胎宮の世界に入れと勧めているのか。ここが問題にな
る。この点を考えよう。

 観無量寿経という経典がある。観無量寿経という経典から推理していこう。観無量寿経には、
確か、真実と方便という二つの面があった。そうであれば、この二十願の世界にもそういう面が
あるだろう。「准知」とは、準じて推理するという意味だ。

351 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:33:43 ID:ESbGrYkg
>>255,>>336
 「この経にまた」とは、阿弥陀経を指している。親鸞はこの議論を阿弥陀経に関する議論の中
で説明している。二十願とは阿弥陀経の世界である。これは、親鸞独創の仏教観だ。観無量寿経
には真実と方便という二面性があった。阿弥陀経にも顕彰隠密の義つまり、顕と彰という深い意
味があるのだ。

 「顕」と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心
を励まして、難思の往生を勧む。

 顕と彰の顕を考えよう。阿弥陀経を考えた場合に非常にはっきりしていることがある。阿弥陀
経は、善導大師を始めとして、多くの先人(経家)が様々に議論している。彼らは、揃って念仏
以外の全ての修行方法を嫌(きら)い、貶(けな)して善本・徳本の真門を開示している。善本
・徳本の真門とは称名念仏だ。阿弥陀経は、名号執持 〜 一心不乱を説いている。善本・徳本
の真門つまり、一心不乱の執持名号、称名念仏を勧めている。多くの先人が難思往生、つまり称
名念仏による疑城胎宮への往生を勧めている。

 ここをもって経には「多善根・多功徳・多福徳の因縁」と説き、釈には「九品ともに回して、
不退を得よ」と云えり。あるいは「無過念仏往西方 三念五念仏来迎」と云えり。これはこれこ
の経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。

 阿弥陀経には異訳本がある。これを襄陽石碑経という。阿弥陀経と同系列の経典だ。この襄陽
石碑経には、称名念仏が多善根・多功徳・多福徳の因縁であると言っている。それだけではない。
善導の法事讃という解釈本には、九品ともに回して、不退を得よと言っている。人には上品上生
から下品下生まで九種類のタイプがある。それぞれに修行法がある。これらの修行をもって不退
転の悟りを得よと言っている。称名念仏をもって不退転の悟りを得よと言っているのだ(親鸞流
の解釈)。あるいは、念仏して極楽浄土に行くこと以上に素晴らしいことはない。念仏を三念あ
るいは五念すればそれだけで仏は迎えてくれるともいう。こうした主張は全て、阿弥陀経の文字
を追っていけば理解できる顕の意味である。真門について言えば、これが方便である。

352 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:34:24 ID:ESbGrYkg
「彰」と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心
海に帰せしめんと欲す。

 顕と彰の内の彰を考えよう。彰は真実難信の法を示す。なぜ疑城胎宮を勧めるのか。疑城胎宮
を通じて不可思議の願海を明らかにしている。難思議の願海を明らかにしているのだ。これをも
って無碍の大信心海に導こうというのが仏陀の考えである。
 難思議とは何か。親鸞は信の巻で言う。「必至滅度の願 難思議往生」と。また証の巻でいう。
「真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度
の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり」。

  利他円満の妙位、無上涅槃の極果こそ、難思議往生の世界である。難思議往生の世界、利他円
満の妙位、無上涅槃の極果を光闡するため、化身仏はいったん方便の世界に導くというのだ。

 良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり、かるがゆえに「甚難」と言えるな
り。釈に、「直ちに弥陀の弘誓重なれるに為って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致
す」と云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。

 阿弥陀経では無数の仏達が念仏を勧めている。二十願の信に、機に応じて無数の信がある。そ
こから利他円満の妙位、無上涅槃の極果の信を得ることは、普通は極めて難しい。だからこそ、
阿弥陀経は甚難の法といっている。何が甚難なのか。難思議往生が甚難なのだ。一方、善導大師
は法事讃でいう。阿弥陀仏の誓いは重複している。だからこそ、信のない者も、信のない中で二
十願の念仏を称えていけば、やがて難思議往生にいたる。

353 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:34:57 ID:ESbGrYkg
 親鸞の和讃を紹介しよう。
 定散自力の念仏も、果遂の誓いに帰してこそ、おしえざれども、真如の門に転入す。
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

 真実の世界は難信の世界なんだ。いきなり入ることはできない。だからこそ、仏はそこへの入
口を設けた。真門という。真門を設けた如来の大悲の恩を理解し、だまされたつもりで一度は疑
城胎宮に入るといい。
 何をするのか。
 定善自力の念仏でいいんだ。散善自力の念仏でいいんだ。最初から信が得られるわけはない。
二十願を見てみよう。果遂せずんば、正覚を取らじとある。必ず遂行するぞと言っている。この
言葉を信じ、一度は疑城胎宮でいいからだまされたつもりで飛び込んでみるといい。称名念仏を
はげんでごらん。そうすれば、やがて真如の門に転入する。難思議往生を遂げるだろう。

 親鸞は、化身土巻の冒頭で言う。「至心回向の願、不定聚機、難思往生」と。
 二十願に、至心回向とあるのに注目して欲しい。二十願は、不定聚機に向かって語られている。
親鸞は、念仏の行者を正定聚機、不定聚機、邪定聚機に分ける。不定聚機とは、誘われれば念仏
を称えるが、誘われなければ称えられない。勧めれば念仏に向かうが、それがなければ念仏を称
えない。一定していない人をいう。邪定聚機は、勧めても念仏を称えない人、正定聚機は、勧め
なくても自分から念仏を称える人だ。

 勧めれば念仏に向かうに向かう人に向かって、親鸞は言う。難思往生を求めよ。真門に入れ。
いったんは疑城胎宮に身を委ねよという。そうすれば、おしえざれども真如の門に転入するだろ
う。これが、不定聚機にとっての難度海を度する大船である。親鸞はそう言っている。おしえざ
れども真如の門に転入す。称名念仏に励んでいけば、自然に難思議往生が開けてくる。これが他
力の本質である。

354 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:58:27 ID:ESbGrYkg
 仏法は聴聞に極まる。仏が表している言葉で、我々は何をどこまで知りうるのか。話を聞けば
どこまで分かるのか。仏法は聴聞に極まる。それでは、聴聞だけでどこまでいくのか。
 仏法は聴聞に極まるとは、器は不定聚だが、真門がどこか分からないという人に言っているの
だ。阿弥陀経を見て欲しい。無数の仏達は、称名念仏を勧めている。つまり、聴聞で聞こえてくる
仏法の究極は二十願の世界なのだ。法を聞けば真門までは至る。しかし、真門から真如門は念
仏を称え、自然に転入していく外に道はない。
 疑城胎宮から真如の世界には、称名念仏の他力による。聴聞を極めれば、真門に至るが、真
如門に至るわけでないことは重要なことだ。親鸞の三願転入の文を読もう。

 愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永
く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。 

 論主(曇鸞・善導)の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って善本・徳本の真門に回入した。つまり、
先人の指導によって、真門に至ったという。難思往生の心を発したという。しかし、難思議往生
の心を発したとはいっていない。親鸞でさえ曇鸞・善導の解義を仰いで真門に到達したが、そこ
から先は一心不乱の執持名号、称名念仏によるほかはないのだ。
  
 真門に立とう。そこは一心不乱の執持名号の世界だ。百人・二百人の先人にいくら話を聞いて
も、称名念仏がなければその先はいかない。百人・二百人の先人が導くのは、真門までである。
後は自らが念仏を称えるかどうかにかかってくる。

 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと
云々
 歎異抄の第二章は仏法、言葉の限界を示している。    (以上)  数日カキコ不能。

355 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 15:21:07 ID:ESbGrYkg
 追加
 ちょっと大事なことを言い忘れた。

 聴聞で真門に至ると言ったが、至った箇所は、そこはまだ真門の外側である。
 真門の内側に一歩踏み込むのは、称名念仏による。ここの境界は明確にし
ないといけない。

356 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 20:02:10 ID:ESbGrYkg
 今日だけは時間があるからもう少し足しておこう。

 仏法はどういう人に教わるか。
 仏法は、知りそうもないものが知っている。仏法を知っている者と、知らない者との分水嶺

聴聞でどこまで到達するか。
 外道の教え 聴聞で難思議往生に至る。信心が得られる 
 仏法    聴聞は、真門の外まで。聴聞だけでは信心が得られない。
仏法は聴聞に極まるとは、聴聞がなければ真門の外に到達できないということである
   真門の外に到達しようとおもえば、聴聞に極まる。
   その先は、思索と称名念仏がなければならない。

阿弥陀仏は誰を救うのか
 外道の教え 一切衆生全ての者を救う
 仏法    念仏を称える者を救うのみ。
 十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし、摂取してすてざれば、阿弥陀と名付けたてまつる。

念仏は何回称えるのか。
 外道の教え  称名念仏は1回でもいい。称えないもいい。
 仏法     称える念仏は、後にも先にもこれ一回だけという、そんな特殊な念仏を予定し
    ていない。次にも、次にも念仏が重ねられていくことが当然予定されてれいる普通の念
    仏を考えている。
     次にも、次にも念仏が重ねられていくことが当然予定されてれいる普通の念仏であれ
    ば、たまたま称えた瞬間に死ねば、結果として1回となる。
     しかし、通常の健康な人であれば、1回と称えるということは、2回、3回と繰り返
    し重ねていく。一心不乱(阿弥陀経)に称ていくものだ。

ゼロ回について
 外道の教え 念仏は称えなくても救われる。
 仏法    念仏のない者は救わない。1回が数の極限である。
                       明日から数日カキコ不能

357 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 23:43:52 ID:ESbGrYkg
>349
誤 方便真門の誓願と言い、難思議の弘誓と言っている
正 方便真門の誓願と言い、難思の弘誓と言っている

358 :7:2007/11/29(木) 01:18:17 ID:ftBKdklU
うーん・・・・S会は19願の勧め?というか自力聴聞の勧めばかりになっていたが、渡海さんは最近20願を勧めてばかりのような。

どこかに18願を勧めてくださる善知識はみえませんか・・・?

359 :298:2007/11/29(木) 02:02:56 ID:Y4+JFR4j
7さん
2chで善知識が紹介されるとは考えにくいです。
ご存知のように、止住百歳なのですから、もちろん今の世にも
善知識はいらっしゃいます。
まずは、信を取っている人に会う事です。
263さんは、地蔵菩薩、観音菩薩に手を合わせることを勧めています。
唱名念仏も、助業になると思います。
その念仏自体を往生の業にしようとするのではなくて、
阿弥陀仏を求めるが故に、念仏をするのです。
これでは20願だと思いながら、それでも弥陀を求めるために、念仏をします。
当流のすべては、南無阿彌陀佛の六字のうちにあるからです。
私たちは、人間界の衆生ですが、弥陀は本師本佛である故に、
善神も、弥陀へと導いてくださるのです。
通常の常識ではかっても、あまり意味がありません。
難思議往生を遂げ、弥陀の極楽浄土へと参るための道です。

360 :神も仏も名無しさん:2007/11/29(木) 19:34:38 ID:qBfWgMjB
>善本という概念は親鸞の独創だ。

十九願の願成就は法然上人だと思うけど
二十願の願成就って誰が言い始めたんでしょうね。

詳しい人教えてください

361 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 16:04:28 ID:uHwKOh3V
十八願成就は南無阿弥陀仏。
必ず仏に成さんとのみ親の呼び声。

十八願成就によって、他の四十七願は成就している。

だから、十九願の機も二十願の機も、南無阿弥陀仏を
となえる事が可能なのである。

南無阿弥陀仏は私たちがとなえるものではなく、
南無阿弥陀仏の呼び声が既にあったからとなえる事が
出来る事に気付かされた時に、十八願に転入する。

十九・二十願は、十八願に転入させる為の彌陀の悲願である。

362 :7:2007/11/30(金) 16:48:20 ID:pduQtcFX
確かに口から南無阿弥陀仏と称えることが出来るのはお釈迦様が仏説を説き、親鸞聖人、蓮如上人に至るまで
仏説を伝えてくださった方のおかげ、それはもちろん阿弥陀様のおかげ。

しかしその、「気付く」とはどういうことなんでしょう。
今、頭では合点出来るんですよ、だって南無阿弥陀仏という称名、自分でこさえた訳ではないんですから。
しかし、南無阿弥陀仏と称えてみても、ぼんやりとした不安はなくならない。変わらない。
阿弥陀仏の存在も、南無阿弥陀仏のお力とも、何の実感も沸かない。そう、どこにも歓喜がない。
救われた、という確信も無い。
二種深信ってどういう風に知らされるのですか?
救われない自分だということも、必ず助ける本願だということも、ただ耳を素通りしていくばかり。これはどういうことでしょう?

363 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 21:15:57 ID:uHwKOh3V
芯から不安が無くなるのは臨終の一念の時。
生きてる間は煩悩(不安・怒り・欲望etc)は絶える事は無い。

しかしながら、煩悩がいくらあっても、彌陀の光明の
中に摂取されている事には間違いが無い。
口にお念仏が出て、阿弥陀仏の事を語り合えるのが、
阿弥陀如来の光明に摂取されている歴然とした証拠。

不断煩悩得涅槃
摂取心光常照護

私達の中にどんなに煩悩があっても、
阿弥陀仏は
「私はあなた達と常に共にいる!煩悩など問題ではない!
既に私の光の中にいるのだ!南無阿弥陀仏!」
とおっしゃられているように私は味わっている。

364 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 23:37:24 ID:Yrsak5tT
いや、二十願成就文に
しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、
かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず
とあるから、二十願の行に善本があることは分かるんだけど
でもこの文を誰が二十願成就の文て言いだしたのかなと疑問に思ったの


365 :298:2007/12/01(土) 00:35:10 ID:s7xkf6vk
7さん
二種深信は、真実信心ですから、これも、弥陀からいただくものです。
7さんは、まだいただいていないのですから、「わからない」とわかることが、
尊いのだと思います。
それを、自分であれこれ考えて、むりやりにわかろうとするのは、
自分でわかると思っているからで、その種の方は、自力をたのんでいるのですし、
わかっていないのに、わかっていることにしてしまうのも、同じです。
「気付く」のではありません。
耳を素通りしてゆくのも、自然なことです。
そのような凡夫だからこそ、弥陀をたのむのですから。

366 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 10:35:13 ID:ElCh2B2B
十八願が成就している事は、
他の四十七願も成就している事だから、二十願も成就している事になる。
十八願が成就しているのに二十願や他の願だけが
成就していないのはおかしいではないか。

南無阿弥陀仏が阿弥陀仏の救いの成就の
お姿である事を信知すれば、諸行をたのんだり
称名を励む自力念仏から自然と離れてゆく。

367 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 10:39:33 ID:ElCh2B2B
私達は自分の称名や諸行や理解
によって救われてゆくのではなく、
阿弥陀仏の「必ず救う」と言う南無阿弥陀仏の
お呼び声によって救われてゆくのです。
本願成就の南無阿弥陀仏によって救われてゆく、それだけです。
「勅命のほかに信心なし。」なのです。

368 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 11:08:21 ID:7OmaeI15
それは十七願の念仏でしょ
諸仏が私たちの口を通して弥陀を讃歎してくださっているという
でも、私たちが称えているとしか思えない人たちが
あれやこれや考えてしまうそれを二十願の行と呼ばれたんではないの?聖人は
でも自分の称名や諸行や理解によって救われようとしていくことは大事
こう言っているように思うんだが。
称名しなさいと言われてすなおに助かると信じておられる方その人は
二十願じゃないような

369 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 11:20:02 ID:7OmaeI15
まあ、聖人は十九願も真実ではないと言われてしまったのだが…
私はここのところ難しいと思う。
なぜなら十九願も二十願も真実は説かれているから
でも、やはり法然上人の言われるとおり、浄土宗の安心は
ただ往生極楽のために疑いなく往生するぞと南無阿弥陀仏と申す以外にない
よね

370 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:51:51 ID:4aiv7vH6
> 358
>渡海さんは最近20願を勧めてばかりのような。どこかに18願を勧めてくださる善知識はみ
えませんか・・・?

 貴方は何か勘違いしているんじゃないか?>> 255で貴方は何と言っているんですか?。「どう
すりゃいいんだ。 〜 何を、どのように、求めていくべきか。」と言っているんだろう。>>
256では、「獲信者と断言される方、念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。
しかし、話をすると、何だか悔しいやら腹が立つやら。その心がどんな精神的世界に住み、どん
な境地にあるのか、サッパリ分からない。」と言っているではないか。貴方は、頂上を知りたい
のか、登山口を知りたいのか。どっちなんですか。

 頂上は、登山口から登っていけばやがて到達するだろう。今大事なことは、どこに登山口があ
るかということだろう。どこに入口があるかということだろう。
 親鸞会では登山口として19願を示した。観無量寿経を示した。19願を要門という。しかし
これはお門違いだった。
 
 また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に
五三を得。
 要門から入っても、真実に至る者は少ない。百人に一人か二人、千人に五人又は三人程度に過
ぎない。親鸞会は、万に及ぶ人がいても、真実に至る人は遂に一人もいなかった。

 何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに、仏の本願と相応せざ
るがゆえに、教と相違せるがゆえに、仏語に順ぜざるがゆえに、係念相続せざるがゆえに、憶想
間断するがゆえに、回願慇重真実ならざるがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに、慚
愧懺悔の心あることなきがゆえに。

 なぜそのようなことになるのか。雑縁が邪魔をするからだ。正念が失われるからだ。仏の本願
に一致できないからだ。教えと食い違っているからだ。正しい言葉に従っていないからだ。心が
連続しないからだ。思いが寸断するからだ。過去を丁寧にふり返ることがないからだ。怒りの心
など、様々な間違った見解が生まれ、煩悩が起きて寸断するからだ。慚愧懺悔が起きないからだ。
これだから要門から入っても、そこに止まる限り真実に至ることはない。

371 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:52:40 ID:4aiv7vH6
 今、貴方は、頂上の話を聞きたいのか。頂上がどんなに美しいところかを知りたいのか。それ
とも、そこに至る真実の門、入口を知りたいのか。どっちなんだ。

 誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞとき
たまう(和讃)
 信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、
名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。(歎
異抄)

 誓願不思議を疑って南無阿弥陀仏を称えていけば、宮殿の中で唯空しく、いたずらに五百年も
の長い時間が過ぎていくだろう。しかし、誓願不思議を信じて称えていけば、つまり難思の弘誓
を信じて称えていけば、必ずや真如の世界に達するだろう。
 難思の弘誓とは何か。辺地懈慢疑城胎宮にも往生しても、果遂の願つまり二十願によって必ず
真如の門に達する。これは名号不思議の力である。誓願不思議によるものだ。

 それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。

 社会的に様々な濁りが生じている時代の人々は、要門ではなく、速やかに円修至徳の真門に入
り、難思往生を願え。

 真門の方便について、善本あり徳本あり。

 真門は目的地ではない。入口である。通過点である。方法論である。しかしそこは善本と徳本
とが備えてある入口である。方法論である。善本だけの要門とは異なる。

372 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:54:28 ID:4aiv7vH6
 定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、お
のおの助正間雑の心をもって名号を称念す。

 入口を通過していくには、定専心すなわちひたすら精神の集中を求める心がある。散専心すな
わちより正しいことをひたすら行なっていこうと思う心がある。両方を含む心もある。大乗仏教
を学ぶ者、小乗仏教を学ぶ者、凡人、聖人、善人、悪人様々な人々が様々な心で称えていくのだ。
助業の心と正業の心とが入り交じって名号を称えていく。

 良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。

 教えの本質は、速やかに真実の世界に導く内容であっても、それを行じて行く器(うつわ)は、
実に反応が鈍い。行は念仏だけに絞っていても、心は様々である。だから、この心は雑心という。

 定散の専心とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくる
なり。

 二十願の世界には定散の専心もある。どうか不幸に見舞われませんように、どうか幸せになり
ますように。そう祈りながら称えていく念仏がある。これを全て自力の専心という。

 雑心の心で称えなさいな。定散心で称えなさいな。何も遠慮することはない。雑心の心ではだ
め、定散心ではだめ。そんなきれい事を言っていれば、だれも念仏を称えられないだろう。

 「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善
本と曰うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍
みな転ず、十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と曰うなり。

 称えている心は自力の心でも、称えられている念仏は善本・徳本が備わっている。万善円備す
なわちあらゆる善が備わっているんだ。全ての善の本である。如来の徳号なんだ。一声称えれば、
あらゆる禍を徳に転換する。十方三世の徳号の本である。必ず真実の世界を開いてくるだろう。

373 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:20:52 ID:4aiv7vH6
 しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、
もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。

 だからこそ、釈迦牟尼仏は智慧を絞って様々な人に教えた。自力の心を持っている人、定善の
器量の人、散善の器量の人に、定善の心、散善の心でいいから称えてみよと教えている。称える
者は疑いの心で称えても、称えられている念仏が疑いを晴らしてくるだろう。果遂の誓いを信じ
て永続的に称えていけば、必ずや真実が見えてくるだろう。


 不了仏智の徴には 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を 頼めば辺地に留まるなり
 仏智の不思議を疑いて 自力の称念好むゆえ 辺地懈慢に留まりて 仏恩報ずる心なし

 自力諸善の人は皆 仏智の不思議を疑えば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞ入りにける
 仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮に必ず生まるるを 牢獄にいると喩え
たり
 七宝の宮殿に生まれては 五百歳の年を経て 三宝を見聞せざるゆえ 有情利益はさらになし

 門の中に入ってからの問題と門の中に入る前の問題とを混同してはいけない。剣道は素振りに
始まり、素振りに終わる。その間に様々な技の学習があり、練習がある。心に迷いが生じ、悩む
ようになれば、いつでも素振りに戻る。素振りを繰り返し繰り返し練習する。
 今年、ワールドシリーズに出場した松井稼頭央選手は、渡米後、一時は大不振に陥ったという。
そのとき彼は、花形選手のプライドを捨て、野球初心者に戻ってひたすら素振りを繰り返し、バ
ッティングフォームを直したそうだ。

松井稼頭央選手には遠く及ばない我々が、初心者であることをどうして恥じることがあるだろう
か。肩に力が入っていてもいいんだ。さあ、やるぞとの思いで、力こぶが入って念仏を称えてもい
い。最初から肩に力を抜けと言っても意味がない。力こぶが入った念仏では、いつまでたっても
真価が現れない。だからといって、最初から力こぶを抜けと言っても、そんなことはだれにもで
きない。だからこそ、最初は力こぶが入っていてもいい。大事なことは、念仏を開始することだ。

374 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:24:13 ID:4aiv7vH6
 力こぶが入っていてもいいというのは、これは入口だ。方法論だ。いつまでもいつまでも力こ
ぶがとれなければ、力こぶがとれない間は真価は出ない。力こぶは取れていかなければならない
んだ。自然の心で、肩に力の入らない念仏を称えていかなければ本物ではない。しかし、力こぶ、
肩の力は、続けていく中でやがて取れていく。気づきが生まれてくれば、自然に治ってくる。そ
れが念仏の徳本という意味だ。
 素振りを繰り返していけば、徐々に気づきが生まれてくる。近くに指導者がいれば是正は速い
が、いなくてもフォームの乱れは徐々に直っていく。これが素振りの徳本だ。素振りには、初心
者が学ぶあらゆる学習事項が凝縮している。これが素振りの善本である。素振りの中で真実を体
験していきなさい。
 念仏は剣道や野球の素振りと同じだ。念仏を始めないことには、力こぶは抜けない。肩の力は
取れない。自然な他力の心は得られない。大事なことは、意識的に力こぶを抜こうとすることで
はない。自力の心を捨てようと言うことではない。自力の心でもいから、力こぶが入ってもいい
から、まず最初はだまされたつもりで念仏を始める。続けることだ。やがて気づくものがあれば
その中で力こぶが抜け、自在な自然な心がもたらされてくる。他力の心で金剛のバッティング
フォームが得られてくるだろう。これが果遂の誓いの本質である。
 18願の世界を説いてくれと言う。力こぶが抜け、肩の力が抜け、自然に念仏が称えられてい
く。これが18願の世界だ。肩の力を抜け、自然になれと言われても、確かにそれは遠い将来の
話とは決して言わない。しかし、今日現在の我々の話ではない。

375 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 12:37:24 ID:7OmaeI15
いやあ、十九願の念仏と二十願の念仏分けて考えることが
そもそも方便としての十九願を離れていない気がするんだよ
上中下とそれぞれ念仏を比較しているでしょ
何様なんだよということではないでしょうか?
阿弥陀仏の心である名号に果として差別があるはずがないじゃないかと
この念仏はちがうあの念仏はちがうと思っているその心が
上中下と差別を産んでいるのではないだろうか?
それは仏智を疑ってる姿ではないのかと


376 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 12:45:37 ID:5vWprmEy
>>370-374
                           ∧_∧
◎               へ          (´<_` )
  \    ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \
      彡____人  )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )  ウゼェんだよ! キモオタッ!
 ◎-●一( * *    ヽミ          |.      |   
      ((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉     | |   
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ-=_二__ ̄    \     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ       ̄\     / /
       (__))     ヽ        .\__/_丿
       |  |         ヽ         .|  |
       |  |______)          |  |
       |  〉三三三[□]三)        |  |
       ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/         \ ヽ
       ~~~|::::::::::::::::::/:::::::/             \ |
         |;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/            / ノ
        (___|)_|)           `-

377 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:48:53 ID:4aiv7vH6
>358
> どこかに18願を勧めてくださる善知識はみえませんか・・・?

往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼ
しめして、御念仏そうろうべし。(20願)

 不定聚の人は、どうかこれで極楽往生できますようにと、自力
の心、祈りの心をもって念仏をお称えください。肩に力が入るな
ら、力が入っていいんだ。力めば称えられるという人は、力んで
称えればいい。無理に無くそうと思う必要はない。

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼ
しめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、
世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼ
えそうろう。(18願)(消息集)

 正定聚の人は、念仏の尊さを心に思い、力を抜き、力まずに
御報恩のために御念仏を称えてください。世の中安穏なれ、仏
法よどうか広まってくれ、そんな思いで、自然な気持ちで称えて
ください。(消息集)

378 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 13:26:34 ID:7OmaeI15
法然上人は十八願も十九願も真実とおっしゃって
二十願についてはさほど言及されてない
でも法然上人の教えはただ念仏すべしなんだよね


379 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:11:30 ID:ElCh2B2B
法然の教えそのままでは、身体的理由など
様々な理由で称名出来ない者達は救われない事になる。
称名出来る者達はすればよい。しかし称名出来ない者達も
全てを救うのが阿弥陀仏の呼び声である
南無阿弥陀仏だ。

380 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:17:04 ID:ElCh2B2B
十七願は諸仏称揚の願で、諸仏が称名し
阿弥陀仏を讃えている。
しかし、称名し讃えるなら、その前に南無阿弥陀仏の
名号が成就していなければならない。
だから如来の呼び声である南無阿弥陀仏は十七願が始めに来る
のではなく、あくまでも十八願成就の上での十七願成就なのである。
阿弥陀如来の本願成就の名号があるからこそ、
諸仏は称揚し賞賛するのである。

381 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 15:19:26 ID:4aiv7vH6
>>374 (重要なキーワードを入れるのを忘れていた)
誤 これが果遂の誓いの本質である。
正 力は継続から生まれる。継続は力なり。すぐには結果が出なくても、続けていけば、
やがて結果が出るだろう。これが果遂の誓いの本質である。

>375
 何が言いたいのかよく分からない。もっと考えを整理するといいだろう。

>378
 親鸞の考えと法然の考えが違うのは当然だ。僕と親鸞の考えに違いが
あっても不思議はない。
 他人を説得できるしっかりした自分の信念を持つことはとても大事なことだ。
あなたの言いたいことは伝わってこない。

382 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 15:22:54 ID:4aiv7vH6
>379
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

 称名念仏しない人を救うとは、親鸞でも言っていない。

383 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:34:17 ID:ElCh2B2B
称名出来ない人達も救うのが阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏です。
無条件で救うのが「必ず救う、必ず仏にする」
という南無阿弥陀仏の本願召喚の勅命です。
称名が救いの条件で無いからこそ、私達は安心して称名出来るのです。
私達は南無阿弥陀仏でもナマンダブでもナマスアミターブッダでも
好きな表現で称名出来るし、また称名出来ない時は無理にしなくてよい。
それは私達が称名する前に、既に阿弥陀仏が
本願名号成就され、諸仏が称揚されているからです。

行も信も無い私達を救い仏にする為には、そこまでしなければならなかったのです。

384 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 16:43:03 ID:4aiv7vH6
> 380
> 十七願は諸仏称揚の願で、諸仏が称名し阿弥陀仏を讃えている。

 お伽噺は、子供を相手にするといい。お寺幼稚園「仏様のお話は」は、そろそろ卒業するとい
いだろう。背景の思想を考えようじゃないか。

> 383
>称名出来ない人達も救うのが阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏です。

 馬鹿馬鹿しい話だ。

本願成就の文、経に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。

 おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言
うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す(行の巻)。

 一念は例示ではない。易行の至極を顕開す。極限である。つまり一回を限界とする。一回を限
界とすると言うことは、本願成就の文で、ゼロ回を含まないと言うことだ。

 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり(行の巻)。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。(信の巻)

385 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 16:44:10 ID:4aiv7vH6
 寂静無為の楽に入るには必ず信心を必要とする。真実の信心には必ず名号を具す。称名念仏が
備わる。(ただし、称名念仏があるからと言って、必ずしも信心があると言うことではない)。
だからこそ天親は最初、我一心に「帰命尽十方無碍光如来」という名号を付した。

> 無条件で救うのが「必ず救う、必ず仏にする」という南無阿弥陀仏の本願召喚の勅命です。

 仏道は善因善果。無因善果ではない。救いのバーゲンセール、大安売りするのはやめたらどう
よ。

 「帰命」は本願招喚の勅命なり(行の巻)。
 帰命が本願招喚の勅命なら、どうして南無阿弥陀仏を称えないで救われるということになるの
よ?
 本願招喚の勅命とは、念仏を称えよと言っていると言うことだ。称えないでも救いますよとい
っているんじゃない。

 称えないでも救われるという、外道のインチキ教義を立てるのは勝手だが、そんな教義に親鸞
の名前を使って貰いたくないものだ。

386 :298:2007/12/01(土) 17:07:11 ID:apn3YjDJ
>385
>「帰命」は本願招喚の勅命なり

これは全くその通りですが、渡海様の南無阿彌陀佛は自己流ではないですか?
(あるいは、自己流の方の教えを受けてはいないですか?)
そこまでご聖典を勉強されていれば、真実信心をいただいたときに、
これまで謎であった箇所が一気にわかり、積年の疑問も解消するのではないかと思います。
今、渡海様は、20願を行っているのです。20願も、もちろん素晴らしく価値のあるものです。
でも、渡海様は、18願を知りたいのではないですか?
知るよりも、自己流を進めたい、好きにしたい、という方もいます。
しかし、それでは如実修行にならないのです。

◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文)

おそらく、「おほやうに」では駄目だからということで、坐禅をするのではないですか?
ご聖典に忠実であろうとすることは、とても素晴らしいことです。
ですけれども、ご聖典を読むだけでは、18願には辿り着けないのです。

387 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 17:43:51 ID:ElCh2B2B
称名が救いの条件では無いからこそ、
私が何らかの理由で称名も聴聞も出来なく
なっても、阿弥陀仏は必ず私を仏にしてくださいます。
私が自分で仏になるんじゃない、阿弥陀仏が
仏にする!とおっしゃられているから、
私は安心して認知症にも植物人間にもなれる。
だからこそ、私は時々、ああありがたい南無阿弥陀仏、
ととなえたくなる。
自分が救われるための称名など、私はとなえたくはない!

私が称名するのは、私が既に阿弥陀仏の
み光の中にあるから称名出来るのである!
阿弥陀仏のご本願があるから私は称名できるのだ。
それ以外の称名など私には必要無い!

388 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 17:59:59 ID:4aiv7vH6
>387,>386
 全く仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり。この旨
を、よくよく思いとき、心得らるべきことに候なり。

 親鸞を離れ、自らが教祖になって我流の説を立てるのは勝手だが、親鸞が腰を抜
かすような教義を、「親鸞」名の下では主張されたくないものだ。
 後学相続の者が迷惑する。これこそが親鸞の教えだというなら、聖教の根拠を示し
たらどうなのさ。

389 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 18:01:41 ID:7OmaeI15
>>381
>何が言いたいのかよく分からない。
具体的にどこが分からないか教えてください
渡海さんみたいに文章は得意ではないので逐次的に
会話する形にしたいのです

>親鸞の考えと法然の考えが違うのは当然だ。
同一人物ではないのでちがうところが出てくるのは仕方ないと思いますが
親鸞聖人は法然上人の教えが間違っているから変えようという意図はなかったと思います。
それに聖人の教えはその時代の背景とまったく関係なく出てきたものではありませんから
法然上人の教えをふまえて聖人の教えをみていくとそのこころが見えてくるものだと
思います。

>>383
称名を名前を称(たた)えるととるものだと思いますので
必ずしも声は必要ではないと思います。
また人の声が届かない人にも弥陀や諸仏は自在に説法されていると思います。
阿弥陀仏の光をしょうげするものはないのだから

>>386
教えの内容が分からない以上何とも言えませんが
あまり思わせぶりに話すのはかえって悪縁になると思います。
有縁の方を誘ったほうがよいと思います。


390 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 18:22:36 ID:ElCh2B2B
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 即得往生 住不退転


乃至一念は乃至であり、必至一念ではない。

無称名もしくは称名一念と言う事だ。

だから称名不可能な人間以外の衆生も、
本願成就の名号によって救われる事が出来るのだ。

391 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 19:57:33 ID:4aiv7vH6
>390
 Izippari.
 Tohoo wa baka o aite ni suru gijyutu no motiawase ga nai.


392 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 22:33:06 ID:ElCh2B2B
渡海さんが俺を救うをじゃないから。
阿弥陀仏が俺を救うんだからいいんだよ。
阿弥陀仏の本願は増上縁だから、無因果じゃない。

俺は、何もしなくても、本願成就の名号によって仏になれる!

393 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 23:21:41 ID:ElCh2B2B
阿弥陀仏の呼び声南無阿弥陀仏一つで、称名・無称名、賢愚の区別無く全てが救われ、
生きて光明に摂取され、死して無上涅槃の証果を得るとは、なんと愉快痛快な事では無いか!

こうなれば、となえるなと言われても、思わず
南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!と称えたくなると言うものだ。

394 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 00:08:24 ID:W1dfdJ0W
>318
> このスレッドの書き込みを読む限りは、私とは、相当考え方が違うのです。
> それでもお話することできるのでしょうか。

 固く考えることはやめましょう。考えが違う人と話し合うのは大事なことだと
思います。

>もう安心を得ている方ですか。

 さあ。なんといいましょうかね。

>また、私はお酒は飲まないのですが、大丈夫ですか。

 よろしいんじゃないですか。私も余り飲む方ではありません。

395 :\______  __________________/:2007/12/02(日) 00:16:47 ID:HO9EH4/C

          V
          /::::)(:::)(:::::::::::)(::::::^::::::::::\
      (::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ::::::::::\
     /::::::::::/ノ::::::::ノ::::::::ヽ:人::::::::::ヽ:::::::::::::::)
     (::::::::::/  ):::ノ::::ノ ) ソ ヾ::::::::::::丶::::ヽ
    (:::::::::/ 彡  ノ   ノ  :: 彡:/)) ::::::::::)
   (::::::::::/彡彡彡彡彡   ミミミミミミミ :::::::::::)
   ( :::::::// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |:::::::::)
     | =ロ   -=・=-  ‖ ‖ -=・=-   ロ===
     |:/ ‖    / /ノ  ヽ \     ‖ ヽ|ヽ       
     |/  ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ.   ..| |     
    .( 。 ・:・‘。c .(●  ●) ;”・u。*@・:、‘)ノ  
   ( 。;・0”*・o; / :::::l l::: ::: \ :。・;%:・。o )
    (; 8@ ・。:// ̄ ̄ ̄ ̄\:\.”・:。;・’0.)   
   .\。・:%,: )::::|.  ̄ ̄ ̄ ̄  | ::::(: o`*:c /..    
    \ ::: o :::::::::\____/  ::::::::::   /
      (ヽ  ヽ:::: _- ::::: ⌒:: :::::::: -_    ノ
       \丶\_::_:::::_:::: :::::_/::::  /
        | \ \ ::::::::::: :::::::::: ::: ::__/ |
    ̄ ̄\ 丶  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    / ̄ ̄

396 :298:2007/12/02(日) 06:23:37 ID:gAaRZQD1
>388
>親鸞を離れ、自らが教祖になって我流の説を立てるのは勝手だが、親鸞が腰を抜
かすような教義を、「親鸞」名の下では主張されたくないものだ。
>後学相続の者が迷惑する。これこそが親鸞の教えだというなら、聖教の根拠を示し
たらどうなのさ。

おっしゃること、誠に正論であると思います。
「親鸞が腰を抜かすような教義」と感じられる部分について、具体的にご指摘くだされば、
ご聖典を示す様に致します。

397 :298:2007/12/02(日) 06:27:56 ID:gAaRZQD1
>394
>>もう安心を得ている方ですか。
>さあ。なんといいましょうかね。

渡海様。これは、ごまかしている言い方で、おもわせぶりな言い方ではありませんか。
「さあ。なんといいましょうかね」という段階は、真宗のご聖典で言えば、
どこに相当するか、わかりますか。


398 :298:2007/12/02(日) 06:50:21 ID:gAaRZQD1
私は、渡海様は、ご聖典を読み込んでいると思います。書いていない部分をどう埋めるか、
考えてこられたのでしょう。
「無称名で」という方がいらっしゃいますが、どう読んだらそうなるのでしょうか。
「称名と言われても、実際何をするのかわからない」という疑問が生じるのなら、
自然だと思います。
「現に南無阿彌陀佛と唱えているのだから」という方がいらっしゃいましたが、
それであるのなら、「南無鈴木太郎」でも、良いではないですか。
あなたが「南無鈴木太郎」と口に出したら、鈴木太郎さんの本願成就なのですか。
本当にその考え方で、安心が得られているのでしょうか。
わざわざ仏陀でなければ、見いだせないような説でしょうか。
安心が得られているなら、私がとやかく言う事ではないかもしれませんが、
自障障他になってはいないか、考えてみてほしいです。
そこで追求するのをやめたら、自障になりませんか。
真宗は、どうなっているのですか。日本は大乗相応の地ではないのですか。
ぬるま湯の教えではありません。総スカンを喰らう教え、誹謗されることが
約束されている教えです。
凡夫が救われることなど、認めたくない方々が山ほどいます。

399 :298:2007/12/02(日) 06:57:09 ID:gAaRZQD1
渡海様。我一心の一心は、18願においては、弥陀からの廻向なのです。その一瞬に、
極楽往生が治定します。これは、体験はともかく、教義上はそのように考えて
いらっしゃいますか。

400 :298:2007/12/02(日) 09:08:14 ID:gAaRZQD1
「無称名で救われる」という考え方が、やはりよくわかりません。
いずれ、称名するのだから救われる、ということでしょうか。
それとも、諸行往生のことをおっしゃっていらっしゃるのですか。

401 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:15:28 ID:tJnVyNE5
>400
横から口出しゴメン。多分、いわれを聞き初めて称名しようとした瞬間に死んでしまったという意味?

402 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:20:30 ID:2HpiVJMW
行も信も阿弥陀仏が南無阿弥陀仏に成就している。
私達が称名するとしたら、既に救われた事への報恩の念仏である。
だから、傷害や病気で称名出来ない人達も、無称名で救われるのです。

403 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:25:38 ID:N7DP2g3i
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

歎異抄では「摂取不捨の利益」は念仏申さんと「おもひたつこころのおこるとき」にある

404 :298:2007/12/02(日) 10:07:23 ID:Y8cpctmi
>403
第一条では、「念仏申さん」の「ん」は、そのときよりも後の時点を示し(多念の相続です)、
これは御恩報謝の念仏が生まれたことを示すと思います。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」が念仏をしたところ、
「往生をばとぐるなりと信じて」は、信心をいただいた一念、
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は、多念の相続がはじまったことを示します。
同じ考えでしょうか?

405 :298:2007/12/02(日) 10:11:40 ID:Y8cpctmi
>401
お話いただける方がうれしいです。信心の沙汰は、蓮師も奨励されています。
微妙なお話しですね。称名できていないのですから、不定聞にとどまり、
往生不定ではないでしょうか。つまり、臨終の一念によって、
生まれ方が変わってくると思います。
ですので、「無称名で救われる」ということとは、違うと思います。


406 :298:2007/12/02(日) 10:13:29 ID:Y8cpctmi
>402
>私達が称名するとしたら、既に救われた事への報恩の念仏である

その前に、真実信心をいただくための、真実行であるところの念仏があると思います。


407 :298:2007/12/02(日) 10:16:12 ID:Y8cpctmi
>402
それとも、真実行は他力の念仏であるから、「私達が」という表現で、切り分けて示していらっしゃるのでしょうか?


408 :298:2007/12/02(日) 10:28:17 ID:Y8cpctmi
>387
387様には必要がないかもしれませんが、このスレには、
真実信心を探している方がいると思い、私は書き込んでいるのです。
弥陀を向いている人には、必ずご縁が現れることになっているからです。
387様は、私には、19願、20願、18願の三願転入のうち、
まだ19願にも入っていないように見えます。
「必要ない」と意固地になるのは、どうしてなのでしょうか。
それが、弥陀の本願を信じていない心であると、私は思います。


409 :298:2007/12/02(日) 10:43:44 ID:Y8cpctmi
>161
>いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。

真実信心いただくために「詰め」のような段階があるとは、私は思いません。
私も恐かったですが、それは、弥陀の前に出るのが恐かったのです。
理屈では、「弥陀はどんな悪人でも救う」と聞いていましたが、
それでも、私は恐かったです。どうしても、弥陀を自分に引き寄せて考えてしまい、
「どんな悪人でも救う」という発想が理解できなかったからです。
世間でも、「怒らないから言ってご覧」という言い方がありますが、
実際言ってみると怒られたりします。こういう経験が先入観になっていたのだろうと
思います。


410 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:39:12 ID:2HpiVJMW
阿弥陀さんの方を向いている、んじゃない。
阿弥陀さんの方に向かせられたんだよ。

阿弥陀さんの方を向くような立派なもんなど私の中には無い。
金とか女の方ばかり向いているのが、この私。

そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

411 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:42:58 ID:jo1hnH7H
>>404
普通
「念仏申さん」は「念仏を称えよう」

だから「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は
「念仏を称えようというこころの起こるとき」と読む

本願寺出版社の現代語訳付き歎異抄の該当部分
「阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、
 必ず浄土に往生するのであると信じて、
 念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、
 その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与えくださるのです。」

ただし「念仏を称えようという思いがおこ」ったわけだから、後続には念仏がでることになる
それこそ一形(この肉体)が尽きるまで

412 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:55:28 ID:jo1hnH7H
「念仏もうさん」

まう・す【申す】〔現代かな遣い〕もうす《他動詞・サ行四段活用》
「まうさん」は未然形の(まう・さ)に、意志の(む)がくっついた形だから

「申そうという意志」

だから「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は
「念仏を称えようという意志の起こるとき」

413 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:18:25 ID:2HpiVJMW
念仏申そうと思う瞬間に限らない。
阿弥陀仏や本願について思いを馳せた瞬間に、
既に阿弥陀仏の光明に摂取されているのです。

414 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:18:54 ID:jo1hnH7H
>>413
文証如何?

415 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:01:05 ID:jo1hnH7H
>>413
信巻
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

文類聚鈔
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。
またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

416 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:09:25 ID:W1dfdJ0W
>410
> そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
> 阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人
を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜ
ず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と(信の巻)

 ただ、もっぱら阿弥陀仏を念じる衆生あれば、仏心の光は常にこの人を照らして
摂め、護る。決して捨てることはない。

 金とか女の方ばかり向いているようなそんなノータリンの余の雑業の行者を照
らし摂むだろうなどということは、誰一人議論していない。問題にしていない。実
に馬鹿馬鹿しい話だ。

 阿弥陀仏を念じる衆生あれば救っていくというのが、現生に護り念じ、増上縁と
なっていくということである。

 少し、目を覚ましたらどう?

417 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:10:24 ID:jo1hnH7H
>>413
>往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき

「信じて」とあるけれども、信じるというのは仏願の生起本末を聞いて疑心のないこと。
「仏願」とは「至心信楽欲生我国乃至十念」が誓われた第十八願。
「生起本末」とは、自力では生死を離れる事のできない「私」を目当てとして、
仏が誓願を立て、五劫思惟し、そしてその成果である名号が今、私に届いているということ。
その仏願には乃至十念も誓われている。

一念多念文意
「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。
この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」
とちかひたまへる本願なり。
「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。
多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、
法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

418 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:11:43 ID:jo1hnH7H
>>417をふまえた上で

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

419 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:15:50 ID:W1dfdJ0W
>415
>またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

 この信心は、名号(称名念仏 念仏行)を伴っている信心かい?
それとも、名号(称名念仏 念仏行)のない信心かい?

真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。(信の巻)

 真実の信心には必ず名号を具す。称名念仏が備わる。(ただし、称名念仏があるからと言って、必
ずしも信心があると言うことではない)。だからこそ天親は最初、我一心に「帰命尽十方無碍光如来」
という名号を付した。


420 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:38:24 ID:jo1hnH7H
>>416
>また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人
>を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜ
>ず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と(信の巻)

> 金とか女の方ばかり向いているようなそんなノータリンの余の雑業の行者

雑業は正業に対する言葉で、専修念仏以外の雑多な往生のための行業。
自力の雑行であり、往生を目標としない凡夫は雑業の行者とすらいえない。
「それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。」

それに「もっぱら阿弥陀仏を念じる衆生」というが、専念でも自力の称名ではだめ

化身土文類
「雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。
 まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。
 定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

自力の称名念仏も雑心の混じった往生業である。

421 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:39:44 ID:jo1hnH7H
>>419
>>411のとおり

>ただし「念仏を称えようという思いがおこ」ったわけだから、後続には念仏がでることになる
>それこそ一形(この肉体)が尽きるまで

422 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:58:05 ID:W1dfdJ0W
>420
 「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方
三世の徳号の本なり。しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したま
う。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり(化身土)。

すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり(行の巻)。
円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理な
りと(序文)。

 南無阿弥陀仏は如来の徳号なんだ。徳号とは衆禍みな転ずる。悪を転じて徳を成す。だからこそ、
釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発
した。継続の力をもって、必ず他力の念仏に転じていく。悪を転じて徳を成す。これが南無阿弥
陀仏なんだよ。

 もう、あんたら意地を張るのをやめたらどうよ?
 称名念仏のない信心があるわけないだろう。称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶ
でも入れていかないと称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる。

 あたりまえの話だろう。親鸞は、別におかしな事を言っているんじゃないんだ。

423 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:59:19 ID:jo1hnH7H
訂正>>417の一念多念文意→唯信鈔文意

>>419
唯信鈔文意
「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。
多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、
法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

一念多念文意
「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、
みなかねをさむることばなり。
「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

十念は乃至が付いている
乃至は、行の一念から死ぬまでの間、多少・・・それら称名の数にこだわる必要はないということ

「信心をうるときのきはまり」
つまり
「;往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこる」
この信の一念に往生は決定し、その後の称名の数は上尽一形であれ下至一念・・・いや
たとえ名号を称える前に死んだとしても、喉が潰れ口称念仏できなくても救済から漏れない

424 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:04:42 ID:jo1hnH7H
>>422
自力称名の行者は、教は頓だが、機は雑。


まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。
つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、
楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、
出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、
大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、
信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

425 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:11:21 ID:jo1hnH7H
>>422
    自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
    うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

    仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
    辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

    罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
    疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

自力称名の人は方便化土に止まる

    仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
    くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

「仏智の不思議をたのむ」とは仏智の不思議に疑心のないこと。つまり
 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

426 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:56:55 ID:2HpiVJMW
阿弥陀仏の無条件の救いは難思議。
人間は理解しやすくするために、無条件の救いに条件をつけて狭めてしまう。

だから難思、双樹林下の救いになる。

427 :298:2007/12/02(日) 16:03:10 ID:4MJr4uUy
>410
>阿弥陀さんの方を向いている、んじゃない。
>阿弥陀さんの方に向かせられたんだよ。
>阿弥陀さんの方を向くような立派なもんなど私の中には無い。
>金とか女の方ばかり向いているのが、この私。

ここまでは、私も同じです。わかりにくくなるので、通常の言葉遣いで書きました。
弥陀のながいながいお育てにあずかったが故のことです。


>そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
>阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

ただ、ここが違います。これだと、光明摂取が複数回あるということでしょう?
光明摂取は生涯に一度であり、それにより極楽往生治定、その後は、
心光常護だと思います。
「ふと興味を持つだけで摂取」であれば、皆様摂取されているということでしょうか。
御文を読みましても、信を取っていない方々がたくさんいらっしゃるのを、
くり返し蓮師は嘆かれていらっしゃいます。

428 :298:2007/12/02(日) 16:18:30 ID:4MJr4uUy
皆様の書き込みを読みまして、いろいろ申し上げたいことはあるのですが、
論点が多過ぎて、書ききれません。
420のお書き込み「称名念仏によって、信心はいただけるのです」に
私は同感です。(その続きの部分に関しましては、意見が違います。)
この「称」とは、

◎「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、
はかりといふはもののほどを定むることなり(一念多念証文)

生涯ただ一度の称名にて信をいただき、一度いただいた信心は、金剛心であるが故に
相続されてゆき、一念はおのずから多念になります。
多念における称名は御恩報謝です。
一念で命終を迎えれば、理論上は一念になりますが、そのような方は
ほとんどいらっしゃらないと思います。


429 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:33:54 ID:2HpiVJMW
それは違う!
称名で信は得られない!
全てを無条件で救うという南無阿弥陀仏
の呼び声を聞く時に信を得る!

430 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:40:22 ID:15h7074L
自力の称名ではそうだろうけど
称名は弥陀がわたしたちに説法されている姿の顕現なので
称名で救われていると言えるんだけどね
この私の称名で救われるわけじゃない
まあ、分かってるだろうけど

431 :298:2007/12/02(日) 16:46:14 ID:4MJr4uUy
>430
他力の中の自力と、他力の中の他力のお話をしているのだと思います。
「称名は弥陀がわたしたちに説法されている姿の顕現」これは、
為物身のことでしょうか。あるいは、方便法身のことでしょうか。
「説法」は、廻向をわかりやすく言い換えたものでしょうか。
素晴らしい書き込みが多いのですが、誰が誰だかわかりません。
何かしらのHNがあると、とてもうれしいです。


432 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:47:45 ID:15h7074L
>>428
念から声へ、声から称へが法然上人からの流れですからね
でももともと念は観察の意味だったと言われてもいますが…

433 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:57:36 ID:15h7074L
>>431
為物身、方便法身、区別があまりつきませんが
回向というものだと思います。
還相回向の菩薩が自在に説法してくださるのも
弥陀の回向のひとつだと思いますし
知恵の光の徳とも思います。
HNをつけると肩肘はりますのでかえってコメントもしづらくなります。
レス番つけて批判してくださればそれなりの
返事は返すつもりですのでどうぞよしなに

434 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:17:55 ID:jo1hnH7H
>>428
レスアンカー間違ってない?
>>420には「称名念仏によって、信心はいただけるのです」こんなこと書いていないし、
それ以前にもその内容は書いていない

>◎「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、
>はかりといふはもののほどを定むることなり(一念多念証文)

秤は物の重さをそのまま、ありのままに示す。
他力の信心も他力のまま、自力を一切交えない

>一念で命終を迎えれば、理論上は一念になりますが、そのような方は
>ほとんどいらっしゃらないと思います。

で、「念仏もうさんと思い立つこころの起こった」その時死んだ人は往生できるできない?
また、発声能力を失い、口称念仏できないひとは?

435 :298:2007/12/02(日) 17:26:52 ID:4MJr4uUy
>434
ご指摘の通りです。428の私の書き込みは、(420に対してではなく)422の書き込みの

>称名念仏のない信心があるわけないだろう。称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶ
でも入れていかないと称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる。

に関してのものです。この書き込みの先頭に420があったので、間違えたのだと思います。

そして、私は「称名念仏のない信心があるわけないだろう」に同意したのですが、
表現に問題があると思い、言い換えました。

「称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶでも入れていかないと
称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる」につきましては、
私は別の意見を持っています。

434の書き込みを見ますと、番号には>>、引用には>となっていますが、
2chでは、そのように書くのが本来なのでしょうか。もしそうであれば、
私もそのようにしたいと思います。



436 :298:2007/12/02(日) 17:34:30 ID:4MJr4uUy
>>432
法然上人によれば、「念声是一」(選択集)です。念については、
論註の上巻の最後のところにも書いてあります。

>>433
HNについてですが、わかりました。私も気楽に書くようにしますね。



437 :298:2007/12/02(日) 17:39:44 ID:4MJr4uUy
>>434
>秤は物の重さをそのまま、ありのままに示す。

なるほど、そのように解するのですね。
私は、ちょっと違うのです。弥陀の救いと行者を合わせ、本願相応のすがたにしなければ
ならないのです。
「ありのまま」では、「もののほどを定む」が、うまく解せないのではないのですか。

>他力の信心も他力のまま、自力を一切交えない
につきましては、文字上は私も全く同感でありますが、434様とは解釈が異なる
かもしれないと思います。

>で、「念仏もうさんと思い立つこころの起こった」その時死んだ人は往生できるできない?
この人は往生できます。

>また、発声能力を失い、口称念仏できないひとは?
弥陀の本願に相応した念仏を行うことはできます。


438 :298:2007/12/02(日) 17:52:34 ID:4MJr4uUy
>>411
これは私も「意志」で解しています。
顕義には、口称の御恩報謝の南無阿弥陀仏を唱えようという心が起こるとき、
隠義には、一念が多念に相続することを示します。
このようなことが将来に予定される予定が発生したとき、
すなわち、信心をいただいた時を指します。
信心自体が相続してゆくために、無間なる相続が起こるのであり、
「寝ても覚めても」となるのだと思います。
もちろん、私も口称念仏は、ふつうの方よりはたくさん唱えています。
ですけれど、不断に口称はできません。それでは凡夫が救われません。
信心の相続を指して、「念仏が念仏する」のようにも言えるのですが、
かえってわかりにくくなるかもしれません。



439 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:58:37 ID:2HpiVJMW
称名は往生の条件でも無いし、信心を得るための手段でもない。
法然聖人は「不回向の行」だと言っている。

440 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:58:41 ID:jo1hnH7H
>>435
>434の書き込みを見ますと、番号には>>、引用には>となっていますが、
>2chでは、そのように書くのが本来なのでしょうか。もしそうであれば、
>私もそのようにしたいと思います。

そうルール
2ちゃんねるブラウザを入れれば、>>を入れれば、そのレスがポップアップする
私はこれを使っています
ttp://janestyle.s11.xrea.com/

もう一つ、個人判別については
>435 名前:298[] 投稿日:2007/12/02(日) 17:26:52 ID:4MJr4uUy

この「ID:4MJr4uUy」はしばらく共通するので、誰かを特定できます

441 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:05:48 ID:2HpiVJMW
憶念彌陀仏本願
自然即時入必定

彌陀の本願を憶念すれば
自然に即時に(往生)必定(の位に)に入る

442 :298:2007/12/02(日) 18:11:02 ID:4MJr4uUy
>>440
ご教授ありがとうございます。場違いなくらい2chのことがわかりませんが、
このスレはご紹介いただきまして、見ることができました。

>>439
「不回向の行」という場合は、凡夫の側の善行を、往生のために廻向するのでは無い、
という意味ではありませんか?(選択集の回向不回向対を指しているのですよね?)
不回向すなわち発願回向です。
自分で善行積んで、その功徳を廻向して往生しようとするのでは無いと説明するための、
「不廻向」という表現であると思います。

御文:かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。

「他力」という言い方も、同じ意図であると思います。
五念門に廻向門があるのですから、廻向無くしては往生できないと思います。
ただし、この廻向は、弥陀からの廻向であるのだと思います。

教行信証:つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、
二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

443 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:22:39 ID:jo1hnH7H
>>437
>私は、ちょっと違うのです。弥陀の救いと行者を合わせ、本願相応のすがたにしなければ
>ならないのです。
>「ありのまま」では、「もののほどを定む」が、うまく解せないのではないのですか。

その辺は取捨任情で
教行信証では称について細注では
 称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)

知軽重也 軽は軽の如く、重は重の如く称える 人間の讃嘆は主観が入っている
    (重くも軽くもなく如実そのままに讃える。法に入って法のまま讃嘆する)
銓也  =秤 物の物量を計り判定する。そのものの重量のままを計る 私計をまじえない
是也  正の意 名号の真如(真教?)の如く
等也  等しい 機と教が相応する 善くできた箱が蓋とぴったり合うように相応する
秤云正斤両也 天秤が釣り合うように 機教の分限を明らかに識知する

444 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:44:30 ID:15h7074L
>>436
なるほど。勉強になります。
思うのですが、善導大師から連なる日本の浄土教の流れは観経の下品下生を
中心にすえて大経を展開されているために大経の十念を称名念仏と捉えている
のだと思います。当然、親鸞聖人もその流れを継承されているので、
十念を称名ととるのに異存はないのですが…。

445 :参考に 梯実円和上の「一念多念文意講讃」:2007/12/02(日) 19:06:54 ID:jo1hnH7H
 「称は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり」
とは、称の釈であるが、ここには「となふる」と「はかり」という二義が挙げられている。
まず称とは名号を称えることであるというのは普通の釈であるが、
「称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり」というのは、
称名の称の釈としては異例である。
確かに称には「秤」の意味があって、「はかり」とも読むが、称名の称の意味とする例は聖人だけではなかろうか。
「行文類」 (『同』一五六頁)に『論証』下の讃嘆門の釈を引用されたなかに、
 かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、
斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに。
といい、称を秤の意味とされていた。そして称には、物の軽重を知るという意味があるといわれている。
また秤とは「斤量を正す」といわれるように正しい目方を量ることであるともいわれている。
ここに「はかりといふはもののほどを定むることなり」といわれたのがそれで、秤とは物の重さを正確にはかり
定めるものという意味であろう。しかしそれは称名のどのような事柄を顕しているのであろうか。
まず「行文類」では、秤は、そこへ加えられた物の重さを正確に表していくように、如実の称名は、
与えられた無碍光如来の名号の名義のとおりに衆生の無明を破り(破闇)、衆生の往生成仏の志願を満足(満願)
していく徳があるということを顕そうとされていたのではなかろうか
。いまもまた本願の称名は、「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生る」
という本願のいわれの通りに往生を遂げしめる働きをもっているが、それはまるで秤が顕すような正確さで
成就するといわれるのであろう。

446 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 19:36:42 ID:2HpiVJMW
憶念彌陀佛本願
自然即時入必定
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩

彌陀の本願を憶念すれば
自然に即時に必定に入る
ただよく常に如来号を称え
大悲弘誓の恩に応え報ずべし

其佛本願力
聞名欲往生
皆悉到彼国
自致不退転

その仏の本願力は
名を聞かせ、往生を欲わせ
皆悉く彼の国に到らせ
自ずと不退転に致らしむ

447 :298:2007/12/02(日) 19:36:46 ID:4MJr4uUy
>>443, 445
ご引用のように、「称名」とは、讃嘆門であるわけです。
ここでは、如実修行が説かれております。
「はかる」に相当するのは、「相応せん」の部分です。
細注のお話が出て参りましたので、この直前に「帰命」の注もございます。
ここでは、「命、使、教」と、他力であることを明かしておられ、また、
他にも明かしておられます。聖人のはかりしれぬ書であり、私も
生涯読み込もうとするであろうと思います。
なぜ讃嘆なのかと言えば、凡夫の側から、如来に合わせてゆくからです。
軽いは軽いと知り、重いは重いと知り、そこから名義のごとく実のごとく相応するように
合わせてゆき、ピッタリと定まったときを「是也等也」と。
自分ではどうにもならぬので、如来にすべてをお任せして、
如来と一緒になり、光明をいただきたいと讃嘆するのですが、
ここに自力の心が入ると、それが蓋となって、摂取の光明が入らないのです。


448 :298:2007/12/02(日) 19:43:44 ID:4MJr4uUy
「はかる」についてです。
軽いを軽いと知れば、重りを足して、合わせます。
重いと重いと知れば、重りを減らして、合わせます。
そして、ピッタリ合わさって「等」となったとき、摂取の光明をいただき、
往生が治定致します。
これで、「正斤両」も、わかっていただけるのではないでしょうか。


449 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 20:51:11 ID:15h7074L
結局、問題は口称が救いの条件に入るかということではないでしょうか?
念仏申さんという心がおこるときというのはかならずしも声に出そうとする心
つまり口業を起こす意業なのか
それとも、阿弥陀仏に救われた感謝の心がおきようとする瞬間の意業なのか?
信じた瞬間に信心は頂いていると思いますので、これが信の一念です。
信の一念に感謝を含めるのか?含めないのか?
こういうことだと思います。整理のため。

450 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 20:58:22 ID:jo1hnH7H
>>447-448
>>445
梯和上の解釈だと、行文類では、
まず「行文類」では、秤は、そこへ加えられた物の重さを正確に表していくように、如実の称名は、
与えられた無碍光如来の名号の名義のとおりに衆生の無明を破り(破闇)、衆生の往生成仏の志願を満足(満願)
していく徳があるということを顕そうとされていたのではなかろうか。

如実の称名は、その名義と等しく破闇満願の徳があることを顕そうとした
一多文類では
いまもまた本願の称名は、「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生る」
という本願のいわれの通りに往生を遂げしめる働きをもっているが、それはまるで秤が顕すような正確さで
成就するといわれるのであろう。

如実の行者の往生が正確に成就することを示す事を示すために秤をもちいた、というもの

この辺、詳しく調べていないのだけど、解釈は色々あるように思う。

451 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:04:00 ID:jo1hnH7H
>>449
>信の一念に感謝を含めるのか?含めないのか?

歓喜初後の論題でありますね
この安心論題では、義としては歓喜はあるが、
信の一念は非常に短い瞬間のことなので人間の識でとらえられず、
したがって意業としては覚知できないという結論でした。

452 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:12:38 ID:15h7074L
なんだか汚くなってしまったのでもう一度

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

念仏申さんと思い立つ心は、これから念仏をとなえようという口業をおこそうとする意業なのか
それとも、不思議に助けられたことを信じ、そのことへの感謝の心がおこる意業なのか

ということが問題の論点だと思います。

往生をばとぐるなりと信じた一念は信の一念、念仏申さんと思い立った一念は行の一念とよばれますが
往生よろこぶ心は信心に当然含まれていますし、よろこぶ心は感謝の心だと思います。
親鸞聖人はこうも諭されています。

そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、
もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときき て疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。  これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。
(親鸞聖人御消息)

453 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:26:28 ID:15h7074L
>>451
なるほど。たしかにそうです。
人間に喜びの心をいただくからといってそれを人間側が認知できるとはかぎりません。
しかし、それでは、自分が信じたという自覚、認知も信の一念と同時であるとはかぎらないかも
しれません。行の一念は、自覚ということになるのでしょうか?

454 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:50:45 ID:jo1hnH7H
>>453
>行の一念は、自覚ということになるのでしょうか?

たしか行一念義は、後続の称名を規定する論題だっと思う
行の一念は「初一声の念仏」という説と、どの一声でもよい「称名の一声」という
いみであるとする二説があるようだ。

前説は上尽一形につながる念仏の初めの一声と解釈し
後説は初一声から上尽一形につながる念仏のどの一声に無上大利が有ると解釈する

だから、これは口業として顕れる称名だから自覚がある

455 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 22:03:49 ID:jo1hnH7H
いや、称名の数を沙汰するのが十念誓意で、行一念義は

桐谷和上の 真宗の安心論題
この論題は、一声の称名に無上大利の利益(浄土往生の大利益)があり、
諸行には有上の小利益しかないのに対して、第十八願の称名は、易行・易修の至極であり、
大利のあることをあらわし、称名正因の邪義を訂すものであります。

456 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 22:53:10 ID:W1dfdJ0W
> 428
 きちんと引用しよう。
「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりと
いうは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、
きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。
また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなうべし」となり。これは多念
の証文なり。おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあ
らそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。 (一念多念文意)

 称はとなえるという意味である。ここにははかるという意味もある。称えたの
は、十声なのか、一声なのかということも問題となる。つまり、声なき念仏な
どはありえないということだ。これは称名念仏は口業である。
 念仏を聞いた人は、一念程のわずかばかりの疑念がない無いときに実報
土へ生まれる。ここで数量が問題で、一念程のわずかばかりの疑念でもあ
れば、実報土に生まれない。
 阿弥陀経は、七日もしは一日、名号をとなうべしという。ここでも数字が問
題になっている。多念を示す証文も多い。一回でいいのか、何回も称えるの
かという議論は生産性がない。
 しかし、声なき称名念仏、数の概念が生じない念仏などはナンセンスであ
る。これが称の意味である。

457 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 22:56:49 ID:W1dfdJ0W
> 429
> それは違う! 称名で信は得られない!全てを無条件で救うという南無
阿弥陀仏の呼び声を聞く時に信を得る!


 選択本願念仏集というは、聖人の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之
業 念仏為本」というは、安養浄土の往生の正因は、念仏を本とす、ともう
す御ことなりとしるべし。(尊号真像銘文)
 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、とい
えり(行の巻)。

安養浄土の往生の正因は、念仏を本とし、必ず信心をもって能入とす。称
名念仏のない信があるのか?   

 南無阿弥陀仏の呼び声を聞く時
 本人が称えなくても、声が聞こえてくるのか?。どこの宇宙人だ?

 また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生
ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信
不具足」
 貴方には、「信不具足の聞」という概念ないようだ。それこそ「思」がない
ということだろう。聞は思を伴って始めて信となる。疑いなき聞が信となる。

確信は体験から生じる。念仏の体験が無くてどうして疑いが晴れるんだい?

458 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 23:02:27 ID:W1dfdJ0W
 称名念仏が無くて信心を得たという人がいれば、誰か紹介してくれや。

 定散自力の念仏(真門)を経由しないで、いきなり十八願の念仏を称え、一念で
信心を得たという人がいれば、拝んでみたいものだ。

459 :298:2007/12/03(月) 01:05:08 ID:UkjWl96M
>>456
>名号を称すること、「十声」「一声」「きくひと」「疑ふこころ一念もなけれ」ば、実報土へ生ると申すこころなり。(一念多念証文)

渡海様の引用は適切であり、今私が上に「」で書いたところは、はかっている様を、
「はかる」一語より、丁寧にお書き下さったものです。
実報土に生まれるのは、誰でしょうか。信心正因です。
「疑ふこころ一念もなし」の方です。

>>458
>定散自力の念仏(真門)を経由しないで、いきなり十八願の念仏を称え、一念で
> 信心を得たという人がいれば、拝んでみたいものだ。

少なくとも、私は知りません。私も経由しています。
理論的には可能ですので、真宗が繁昌している地域には、いらっしゃるだろうと
思います。

>>456
念の数を数えることは、凡夫にはできません。
ではどのようにして「はかる」のかと言えば、口伝があると、論註上巻の最後に
書いてあります。文字に書いてはいけないことになっているので、
ご開山も『一念多念証文』にて、

>おもふやうには申しあらはさねども

とおっしゃっています。

460 :7:2007/12/03(月) 01:33:27 ID:j3ehEZMj
渡海さん、自分が行きたいのは山の頂上です。当然登山口を知る必要があるという訳です。

ただ、称名念仏を繰り返していけば自然に十八願の世界に転入する、という言葉の響きに疑問を感じたのです。
自然に・・・それは、「いつとはなしに」その世界に行くのでしょうか?ある時点をもって、ガラリと世界が変わるのでしょうか。

298さん、口伝とは、これまた疑問を感じます。すると、親鸞聖人の師、法然上人は、誰から口伝されたというのでしょうか。
法然上人は、お経を繰り返し読まれて、遂に信心決定に至ったと聞いております。
法然上人は文字が全てではありませんでしたか?その師を否定するような親鸞聖人ではないと思うのです。

最近は混乱が増してきました。

461 :298:2007/12/03(月) 02:08:18 ID:UkjWl96M
>>460
親鸞聖人が、法然上人を否定されるはずがありません。
ただただ、法然上人の正意を明らかにしようとされたはずです。
選択集を読んでみて下さい。「お経を繰り返し読む」行が選び取られているかどうか、
ぜひご自身の目でお確かめください。
現代語訳ではなく、原典にお当たりください。

◎そのとき聖光房、改悔の色をあらはして、負の底よりをさむるところの抄物
どもをとり出でて、みなやきすてて、またいとまを申して出でぬ。しかれども
その余残ありけるにや、つひに仰せをさしおきて、口伝をそむきたる諸行往
生の自義を骨張して自障障他すること、祖師(源空)の遺訓をわすれ、諸天の
冥慮をはばからざるにやとおぼゆ。(口伝抄)

462 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 12:16:40 ID:Gav5Ykib
全て救うという阿弥陀仏の南無阿弥陀仏の呼び声以外に真実は無いというのに…

463 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 15:14:28 ID:Gav5Ykib
一切衆生を救う阿弥陀仏のご本願は、南無阿弥陀仏
の本願成就の名号として既に成就している。
それを聞信し憶念するものは正定の位に入り不退転となる。
よってその者にとっての称名は、全て報恩に他ならない。
信心を得るため、往生するために、念仏する者は、
既に名号に信心も往生も決定している事を知り、報恩として
念仏を称えるべきである。

464 :298:2007/12/03(月) 15:55:07 ID:9DGr86dK
>>462, 463
「聞信」とは何か、「憶念」とは何か、が大切であるわけです。
463における「報恩として」は、凡夫の意行として、書いていらっしゃるのでしょう?
その心をどうやって作るのですか?
信心も弥陀にいただき、報恩も現世の益としていただくからできるのです。
このように私は考えますけれども、信念を持って称名されているわけですから、
素晴らしいことであると思います。
私は、凡夫ですので、463さんのように、そのままで安心することができなかったので、
弥陀をたのむ必要があったのです。

465 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 17:48:26 ID:Gav5Ykib
報恩の思いでとなえてもとなえなくても構わないんですよ。
ただ、彌陀の呼び声を聞いた後の念仏は
みな報恩の意義なんだと心得て、称名すべきという事です。

念仏するたびにありがたく思わなきゃいけないと言う意味じゃない!
ありがたく思ってとなえる念仏も、ありがたくなくとなえる念仏も、
全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を
聞いた者にとっては、
となえる念仏全て、彌陀に救われた後の仏恩報謝の念仏と心得なさい、と言う事です。

466 :298:2007/12/03(月) 18:03:55 ID:9DGr86dK
>>465
なるほど、確かにその通りですね。
一度信をいただけば、その後は、どのような気持ちで唱えても、
御恩報謝になるからです。
すると、やはり、「全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を聞いた」とは
どういうことなのか、ということに集約されるのでしょうね。

467 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:16:50 ID:Gav5Ykib
南無阿弥陀仏とは、どんな愚かな者も優れた者も平等に、
みな全て、限りなき光と命を持ち、他の衆生を仏になさしめる働きを持つ仏にする!
という阿弥陀仏の本願成就の呼び声なんだという事。
簡単に言えば、どんな罪もさわりにならず善も助けにならず、
必ず仏にする!全て救う!という阿弥陀仏の呼び声なんだという事です。

468 :7:2007/12/03(月) 18:25:16 ID:WDfjos6P
>>466 すると、やはり、「全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を聞いた」とは
どういうことなのか、ということに集約されるのでしょうね。

そこです、そこがもうどうにも・・・

469 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:47:37 ID:Gav5Ykib
全てを救うと言う阿弥陀仏のご本願は、
南無阿弥陀仏の六字の姿に成就している
と聞かせて頂くのです。

470 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:50:25 ID:Gav5Ykib
南無阿弥陀仏と本願成就し、私達に現に今、
呼び続け働きかけていると言う事です。

471 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 19:25:46 ID:Gav5Ykib
その事を聞信し、その後にとなえる念仏は、
仏恩報謝と仏徳讃嘆の念仏に他ならないという事です。

472 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 20:12:38 ID:0Zt4g5ni
>>464
ここあたりが出拠、かな?

蓮如聞書
一、蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、
またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。
他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。
聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。
そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云云。

473 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 20:45:54 ID:ZI20FNAG
>>455
すみません。流れきるかもしれませんが。
往生の因と往生の益とは何がちがうのでしょうか?
因とは信をえた本人の因だと分かりますが、益とは誰の益ですか?
これまた称えた本人が益する、益しているという自覚をもつということでしょうか?
それとも一声の念仏そのものに大利の益が備わって広まるということでしょうか?
つまり、その念仏が自力の念仏とはちがうものになるということでしょうか?
またそのどちらでもないのでしょうか?
なんだか質問ばかりですみません。

でもやはり、念仏申さんと思い立つ心が、これから念仏をとなえようという口業をおこそうとする意業なのか
それとも、不思議に助けられたことを信じ、そのことへの感謝の心がおこる意業なのか
問題になるところだと思いますので。


474 :298:2007/12/04(火) 00:03:25 ID:F9YgAr3g
>>469, 471
ここに書いてあることには、ほぼ同感です。
ただ、この文を書いている方には、その内容はなく、ただ「信じる」ということでしょう。
私は、「真実行」という中身があると考えています。

>>468
真実行について知っている方に会って、尋ねるしかないと思います。
いくら考えても、わかるはずがありません。
教われば、すぐにわかるのです。

475 :298:2007/12/04(火) 00:09:27 ID:F9YgAr3g
>>472
ご引用の箇所には、まったくもって同感です。
「信」「弥陀をたのむ」念仏と、「そのうへの」念仏とは、異なるということです。
つまり、称名は信を伴うとは限りませんが、信は必ず称名を伴うので、
信心正因とするのです。

476 :298:2007/12/04(火) 00:13:29 ID:F9YgAr3g
>>455
まず大切なのは、学問して、念仏とはどのようなものか、わかって念仏することが、
信をいただくための念仏ではないということです。
信心為先という考え方は、とにかくまずは信をとり、その上で、
学問したいなら、我が身に信心を得た上で、それについて学ぶということです。
ですから、実際に信を取る上では、その種のことは、全く問題にはなりません。
一文不知の方でも、念仏することはできるからです。
しかし、信前の方が、弥陀をたのむ気持ちになるように、
疑問を解いてゆくことも大切だとされています。
広大な益は、名号を称えた方、如実に修行された方が、いただきます。
自覚を得るかどうかは、後念相続にかかっています。

477 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:10:46 ID:rKU535ig
>>459
>理論的には可能ですので、真宗が繁昌している地域には、いらっしゃるだろうと思います。

 また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、
要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり(化身土)。

 極楽は悟りの世界である。縁に従って様々な行を次々と移っていくような雑善では、普通の人は
なかなか極楽に至ることができない。だからこそ、阿弥陀仏は念仏という重要な法を選択し、これ
を称えさせ、ひたすらひたすらこれを称えるように教えている。

 いきなり十八願の念仏を称え、一念で信心を得られるそんなスーパーマンには、もともと浄土真
宗など必要がない。

>どのようにして「はかる」のかと言えば、口伝があると、論註上巻の最後に書いてあります。

 多くの人が読んでない本を引用するなら、誤解の無いように責任を持って正確に引用したらどうですか。

 『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知るこ
とを須ゐず。「@蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るもの
これをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して
他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。またなんぞ仮に念の頭数を知ることを須んや。もしかならずす
べからく知るべくはまた方便あり。かならず口授すべし。これを筆点に題することを得ざれ。

 @は「虫」偏に旁が「恵」、オンは「ケイ」。

478 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:11:53 ID:rKU535ig
 観無量寿経は下品下生で言う。極悪人でも十念の念仏を称えれば、往生すると。これは、念仏す
れば、それだけで往生に必要な業が整うということであって、必ずしも十という数を数えなければ
ならないということを言っているのではない。
 つくつくほうしというセミは、夏だけ鳴いている。春と秋を知らない。夏だけ鳴いているからと
言って、自分が鳴いている時期は夏であることを知っているだろうか。そんなことはない。夏であ
ることも知らないで鳴いているだろう。夏を知っている者だけが夏を知っており、夏にだけ鳴く蝉
は夏を知らない。
 念仏もそれと同じである。十念で往生するということは、神のような超人的な者が言うことであ
る。普通の人は、ただひたすら思いを重ね、継続的に念仏して余計なことに気を取られなければそ
れで十分である。どうして仮にも念仏の回数などを知る必要があるだろうか。そんな必要はないの
だ。
 もしどうしても知りたいというならば、他に方法がある。知りたいという人には口伝えで教えよ
う。浄土論註などのような本でわざわざ文字を介して教えるような内容のものではない。

 回数を問題にすることに意味があるか無いかということと、回数という概念が生じるものか生じ
ないものかという議論は別です。
 十回という回数を数える必要は全くない。しかし、回数という概念が生じないような念仏は念仏では
ない。

479 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:13:43 ID:rKU535ig
>ご開山も『一念多念証文』にて、おもふやうには申しあらはさねどもとおっしゃっています。

 ご開山という程に、親鸞には尊敬の念をもっているなら、正確に読んで欲しい。

 おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、
おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・
多念往生ともうすことなし。

 明確な回答には成らないけど、結論として一念でいいのか、多念がいいのかというような争いは
全く意味がないと言うことを推察して下さい。浄土真宗では、念仏往生という言い方はあるが、一
念往生とか、多念往生という言い方は存在しないのです。

 おもうようにはもうしあらわさねどもとは、一念・多念のあらそいは意味がないということのそ
の理由付けをうまく説明できないということを言っている。
 回数という概念が生じないような念仏があるかないかということを言っているのではない。
 称とは、数量の概念の生じる念仏を称えると言うことです。


>>460は後日コメント


480 :298:2007/12/04(火) 01:38:46 ID:F9YgAr3g
>>477
>いきなり十八願の念仏を称え、一念で信心を得られるそんなスーパーマンには、もともと浄土真
宗など必要がない。

十八願こそが易行なのです。ですから、十八願が一番簡単です。
易行であるから、難信であるのでしょう?
「そんなカンタンなはずがない」と。

>>478
>観無量寿経は下品下生で言う。極悪人でも十念の念仏を称えれば、往生すると。これは、念仏す
れば、それだけで往生に必要な業が整うということであって、必ずしも十という数を数えなければ
ならないということを言っているのではない。

観経における十念の念仏は、顕義であって、隠義ではないでしょう?
韋提希夫人は、十念の念仏にて救われていますか?
論註に書いてあるのは、十念を数えるには、神通が必要だと言うことです。
凡夫にはそれはできないので、「では、どうするか?」と言えば口伝があり、
それを紙に記してはいけない、とあるのです。
十念を数えることが異安心であるのと同じ様に、
一念覚知も異安心なのは、凡夫には神通がないので、認識できないからです。

>>479
一念多念を争っても意味がないのは、一念は自然と多念に相続されるからです。
ですから、一念と多念を争う時点で、邪義になっているとおっしゃっているのです。

481 :298:2007/12/04(火) 04:51:59 ID:F9YgAr3g
>>479
>おもうようにはもうしあらわさねどもとは、一念・多念のあらそいは意味がないということのそ
の理由付けをうまく説明できないということを言っている。

もしこの意味であれば、「もうしあらはしえねども」「もうしあらはすことあたはざれども」など、
可能を表す語が入るのではないでしょうか?
あるいは、「おもふやうにもうしあらはすこと、かたけれども」のような表現になると思います。
この場合は、意識的に「あらわさなかった」ことを言っていると思います。

つまり、文書にて、きちんと説明するわけにはいかないけれども、一念・多念で争うのが
おかしいということくらいは、わかる程度には説明しました、ということだと思います。

報土往生、化土往生を考え、そして、「実報土へ生まる」ということを考え合わせると、
「はかる」ということを説明している部分も、見えてくると思います。

◎名号を称すること、十声・一声・きくひと・疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。

これは、「はかりといふこころ」を説明している部分だと思います。


482 :神も仏も名無しさん:2007/12/04(火) 14:37:00 ID:nEv/dkIP
十八願は、無行無戒で救うという阿弥陀如来の本願なんだよな。
それが南無阿弥陀仏の名号と立身即行に成就してるわけだ。

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